2008年12月29日月曜日

今週の聖句

ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。(ヨハネ6:9)

パン五つと魚二匹で五千人の男を養った記事です。五千人の奇跡です。弟子が言ったとおりです。

パン五つと魚二匹では、こんなに大ぜいの人々ではそれがなんになりましょう。私たちの現実を見るとき、それが何になるでしょう。こういった出来事の連続です。
 
それは自分の見える世界での判断です。人それぞれの経験、知識の範囲内でしか物事を判断できません。そして結論を出してしまいます。

弟子たちの結論もそうでした。五千人もの人がいるのにわずか五つのパンと魚二匹それがどんな役に立つというのでしょう。

イエス様の世界は違います。

捧げられたパンと魚、これがどれほどこの少年にとって大事なものであるかを知っていました。

彼らの貧しさは一日中イエス様につき従いながら、誰も自分の食べる食事を持っていなかったことからもわかります。社会的にも相手にされない人々でした。

イエス様は少年の犠牲に対してあふれるほどの恵みをもって報いてくださいました。五千人が食べてなお余ったのです。これほどの祝福があるでしょうか。

自分の存在自体が、あるい自分の犠牲が何になるでしょうと思えるほどに小さなものであったにしても、その価値を認め豊かに恵んでくださるイエス様に目を向けましょう。

主の祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2008年12月22日月曜日

今週の聖句

マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。ルカ2:7
 
クリスマスおめでとうございました。
昨日私はクリスマス礼拝、祝会と1日楽しみました。皆さんはいかがでしたか。

キリストがお生まれになった。その御降誕をお祝いする日がクリスマスです。現代は不安と恐怖の時代だと思います。つい8月に北京オリンピックで世界中が沸きました。

今はどうでしょうか。世界的な大不況で毎日契約社員、あるいは非正規社員のリストラです。

この寒い暮れに会社からリストラされた社員の方々は大変です。寮を追い出され、住むところなく、収入も無くなるのです。私たちの社会はこうした弱い人たちの犠牲の上に成り立っていたことを今回の不況は浮き彫りにしました。

到る所で強者の論理で物事が切り捨てられています。人が人扱いされなくなっていとも簡単にリストラされます。

イエス様の時代も同じでした。サドカイ派、パリサイ派、律法学者たちは民衆を支配し、行政、政治、宗教の面で彼らを支配しました。また彼らは郊外に大きな農場を所有し小麦、大麦、ブトウなどの農産物の市場を支配しここでも利益を搾取していました。2重の搾取です。

このような社会背景でイエス様のメッセージを考えますと弱者に対する愛に満ちているのです。

すべて疲れている人、重荷を負っている人はは私のところに来なさい。わたしはあなたを休ませてあげよう。また医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。多くの群衆を羊飼いのいない羊のようにあわれんだ。

社会からドロップアウトした民衆の味方でした。弱者の立場にたたれたのです。
 
現代は強者の論理でしか通用しません。弱い者はいらないのです。イエスさまの愛に満ち、優しさに満ちた福音はなおざりにされます。教会の中でさえ注意しないといつの間に強者の論理で教会の運営がなされ声の大きな人がおお威張りです。

教会でも弱い者は相手にしないのです。しかし、イエス様が神の子であることに固執することなく人間の姿になられて、この世にお生まれになったのはこの弱者に生きる者に希望と勇気を与えるためです。
 
みなさんのクリスマスはいかがですか。
祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2008年12月17日水曜日

今週の聖句

「キリストはいのちの光として、闇の世界に輝いており、闇の世界は、決してこれに打ち勝つことはできない。」ヨハネ1:5(現代訳)尾山令仁訳

ヨハネはこの福音書を70年近い信仰生活の末に、90才代で書きました。多くの苦労と迫害との試練を超えて書き上げました。ですから他の共感福音書とは趣を異にしています。イエス様の生涯をヨハネの信仰歴というフィルターを通して書き上げたものです。とても霊的な福音書です。

キリストは命の光として紹介されています。光といのち、明るく希望に満ち、生き生きと躍動感を感じます。

闇の世界、それは最終的に死が支配する世界です。そこは失望に満ち、お互いが自分のために生きるのに必死の世界です。

当時のイスラエルもいまも民衆はしえたげられ、搾取され、生活苦にあえいでいます。本当の意味でお金の大事さを知らされ働くことの意味、生きることを考える時代です。

自分の存在を確認しながら、真に生きることを求める時代です。イエスはそのために来られました。

いのちの光として来られたのです。このイエスにわたしたちは人生の存在を見出すときいのちにあふれた人生を歩むことができるのです。

よきクリスマスをご一緒に守りましょう。
祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2008年12月1日月曜日

今週の聖句

私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので・・・(ルカ1:1,2)

イエスの生涯の出来事が多くの人によって伝承され、それがそれぞれにまとめられている様子がわかります。

ルカの福音書はAD58年から60年の間に書かれたと思われます。

著者ルカはギリシャ人でパウロの同労者であり医者でした。また伝承によればアンテオケ出身であり、画家でありました。

私たちの間ですでに確信されている出来事、改訳聖書ではわたしたちの間に成就された出来事、新共同訳ではわたしたちのの間で実現した事柄について、初めからの目撃者で、と書かれています。初めからの目撃者の初めからとはイエス・キリストの宣教の初めからということです。 

ルカの福音書が書かれた時代に、ルカたちの間で確信されていた出来事、あるいは成就されたできごとについてルカはすべてのことを初めから綿密に調べて、順序よく書いたのがルカによる福音書です。

確信されている出来事、成就された出来事、また新共同訳では私たちの間で実現した事柄、この訳し方の違いですが皆同じ言葉を訳したものです。

確信されているということは、私たちの心のありように重きが置かれています。こうなると信じていたできごと。また実現したことがらとは前々から約束されていたことが現れた、その結果に重きを置かれているように感じます。

しかし成就したとは旧約の昔から預言され、約束され、いろいろな方法で語られ、私たちの間で長い間待ち望んでいた出来事が「成就」したことなのです。イエス・キリストのご降誕です。

それがイエス・キリストの福音です。今週からアドベントに入りました。ルカはその成就されたイエス・キリストの救いの素晴らしさに心動かされて、イエスの生涯をきちんと調べて、その生涯を書かずにおられない気持ちになったのではないでしょうか。

私たちもキリストの御業を知れば知るほどキリストを知りたくはないですか。アドベント、私はこの期間マタイが28章、マルコが16章、ルカが24章、ヨハネが21章合計89章です。24日まで1日約4章読むと4福音書を全部読み終えることができます。

チャレンジする価値ははあると思うのですが。如何ですか。是非キリストの愛ゆえにチャレンジしてください。

キリストのお誕生を待ち望みながら祝福をお祈りいたします。

佐々木 博

2008年11月25日火曜日

幕張本郷クリスチャンコミュニティメンバー募集

私たちの目指す教会にご理解のある方はおいで下さい。心から歓迎いたします。

あたらしいぶどう酒は新しい革袋に入れなければなりません。(ルカ5:38)

全く新しく皆さんと新しい教会を築きあげてゆきたいと願っています。

私は今年70歳になりました。新規開拓です。信者はわたしと家内友人の4人です。今、私は福音によって弾けたいと強く願っています。皆さんはいかがですか。

こんな不安な時代、キリスト信じる信仰によって一緒に弾けてみませんか。12月16日下記に移転し、以下のことを目標に歩んでゆきます。是非お祈りください。またご参加ください。

新住所は
千葉市幕張本郷3-5-30(3DKの一軒家です。)
電話043-275-5254
HPはhttp://makuharihongou.blogspot.com/
メールtibahisasaki@u01.gate01.com

すべて疲れたひと、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます。(マタイ11:38)
そこでイエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:31,32)


幕張本郷クリスチャンコミュニティの使命
幕張本郷クリスチャンコミュニティは人生に疲れた人、人生の重荷につぶされた人、不安と失望の中、傷つき、落胆し、あせって、困惑している人に愛と受容、助けと希望、導きと励ましを見出す場所となることである。言い換えればあなたの居場所を見つけ出すことのできる教会です。

1.幕張本郷地区の人たちにほっとして、勇気を与え元気になる場所を提供することです。(使徒13:52)
1.わたしたちは幕張本郷地区の人たち5万人にイエス・キリストの福音(良きおとずれ)を伝えることです。(マルコ16:15)
1.幕張本郷クリスチャンコミュニティは受けるよりは与えるほうが幸いであるといわれたキリストの御言葉を実践するコミュニテイです。(使徒20:38)       (世界宣教を小さく視野に入れています。)


私たちは初代教会の信徒のような教会員を目指します。
彼らは使徒たちの教えを堅く守り交わりをし、パンを裂き祈りをしていた。(使徒2:42)

A.初代の兄弟たちは使徒たちの教えを堅く守っていました。御言葉を中心に生活をしていました。クリスチャンは御言葉に養われ成長します。(Ⅱテモテ3:16)
B.交わりをしていました。これは飲食を意味していません。御言葉を信じた結果与えられた交わりです。お互いの不足を補いあう、相互扶助を行っていました。(エペソ2:10、Ⅱコリント8:4)
C.パンを裂いていました。聖餐式を守っていたのです。キリストの死と復活の恵みを十分に認識していました。(Ⅰコリント11:23,24,25)
D.祈りをしていました。イエス様はよくお祈りをしていました。クリスチャンの霊的生活の基本は祈りにあります。絶えずキリストの御心を求めながら、神の知恵と力をいただきながら生きるのがクリスチャンです。(ロマ12:12)


開始
12月28日午後3時の礼拝から始める予定です。礼拝時間毎週日曜日午後3時から(礼拝)毎週水曜日午後2時から(婦人会)毎週木曜日午前10時30分から(礼拝)


幕張本郷クリスチャンコミュニティのアクションプログラム
(奉仕、献金は各自、自由が原則です。)

第1期(告知期)
2008年7月25日から2009年まで教会の存在を知らせる期間です。むしろ教会の存在を知っていただく期間です。チラシ配布、訪問、HPの充実、教会の案内看板等の作成その結果としての会員増は4人(受洗者、転入者)を含むはるかな?10人礼拝を目指して

第2期2009年~2011(地域密着期)
第1期を継続しつつ各種イベントの企画コンサート、地域密着による企画(地域の必要に応える)キッズゴスペル、ママさんゴスベル、アルファコース等会員増は5名以上としすこし手応えを感じながら15人礼拝を目指す。自給に向けて歩む

第3期(自給自立期)
単立か教団に加入か?2011~2015教会員の教育と訓練 役員の育成各種ミニストリー、ユースパスター等を考える礼拝30人以上

2016年以降(拡大期)
国内宣教、世界宣教を視野に入れつつ、各種ミニストリーを考える。


指導者たる者の第一の仕事は使命明確にし、それに生きることである。
私たちの注意点
1.理解と関心に満ちた会話ほど未信者の心を開くものはない。
1.相手の必要に触れる感性こそ人々に愛を示す出発点となる。
吟味すべき事柄
1.ことを行うとき聖書的であるかどうか。
1.それを適切に行ったであろうか。

2008年11月24日月曜日

今週の聖句

また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。(ルカ5:37、38)

私たちが一番楽な方法は、今までやってきたことをそのまま何も変えずに行い続けることです。やり方もわかっています。結果もわかっています。

教会の陥りやすい落とし穴がここにあります。いつの間にか伝統という言葉に狎れてしまい、経験主義に陥ってしまいます。

誰でも環境を変え、方法を変え、生活そのものを変えなければならないようなことはしたくはありません。人間楽が一番なのです。

現代の激しい変化の中で生きていくことは変わり続けることなのです。

朝令暮改がよいのです。時代が変わりました。朝令暮改はよい意味で使われる言葉ではありません。

広辞苑によりますと朝に命令を下して、暮方それを改め変えること。命令がしきりに改まって決まらぬこと、とあります。一貫性がなく、なんとなく信頼のおけぬ人のような印象を与えます。私の年齢からは朝令暮改は信頼のおけないことを意味します。

教会の主張は今日ほど変化の激しい時代はありません。政治も経済も一刻一刻変わってゆきます。リアルタイムで世界が変わるのです。

こんな変化の激しい時代だからこそ変わらぬ真理の聖書に堅くたって動かされないようにしましょう。もちろんアーメンです。

イエス様は面白いことを言っています。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなさいというのです。イエス様の主張は特別に新しいことを主張なさったのではありません。

旧約の預言の成就、律法の完成者としておいでになったのです。陰であり、ひな形でり、しるしであった救いの本質が人となって現れたのです。

しかしそれが長い伝統や儀式に流され当時の支配者たちのサドカイ派、パリサイ派、あるいは律法学者の目には、新しい教え、危険な教えに映ったのです。

私たちはことの本質を理解し、守るべきは守り、変えるべきは変える勇気を持つべきです。守るべき本質はキリストの福音です。キリストの十字架と復活です。

教会の持っている制度や伝統は時代と共に変わって行くものです。礼拝プログラム、音楽、礼拝時間その他etcです。

教会が自己中心的、自己閉鎖的になっているのは変化をのぞまないからです。新しいぶどう酒を古い皮袋に無理に入れているからです。

福音の本体であるイエス・キリストがその救いを完成しました。それにふさわしい皮袋にその福音を入れませんか。あなたがその皮袋です。

真理はあなたを自由にします。(ヨハネ8:32)

佐々木 博

2008年11月17日月曜日

今週の聖句

シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。(マタイ16:16,17)

当時イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国の支配下にありました。多くの民衆は貧しく、大部分の民衆はこうした政治情勢、経済情勢からの解放を望んでおりました。

現代も閉塞感、大きな不安の時代です。イエスの時代背景と同じです。人生に希望が持てなくなっています。

わたしを誰だというのですか。イエスのこの問いかけは大事です。こたえによってその人の生き方が変わるからです。

バプテスマのヨハネは国主ヘロデの不当な扱いで殺されました。しかし、イエスの不思議な力を見て、ヨハネがよみがえり、その力が働いているのだと信じていました。

またマラキ書の「見よ、わたしは大いなる恐ろしい日が来る前に預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(マラキ4:7)との預言によりエリヤだというひともあり、またエレミヤを申命記18:15の予言されている予言者に結び付けエレミヤだという人もおりました。あるいは預言者のひとりだとも言っています。これが弟子たちの答えでした。

当時の常識からいえばイエスをキリストと認識できる人はおりませんでした。

マタイ、マルコはピリポ・カイザリヤ地方に行かれたとき弟子たちに尋ねて言われた。 「人々は人の子をだれだといっていますか。」と。

しかし、ルカだけはイエスがひとりでが祈っておられるとき、弟子たちは一緒にいた。その弟子たちに「群衆は、わたしのことを誰だといっていますか。」と聞いています。

イエス様は何を祈ったのでしょうか。一つはご自分の十字架への道の確認だと思います。いま一つはペテロの告白ではないでしょうか。ペテロが「あなたはいける神の子キリストです」と告白できるようにとりなしをして下さったのです。

弟子たちのイエスに対する認識も当時の民衆と大して違いはなかった思うのです。ラビとしては最高の人物との認識はあったでしょう。しかしそれ以上ではなかったと思います。

イエス様の答えがそのことを語っています。「バルヨナ・シモン。あなたはさいわいです。いける神の子キリストを啓示したのは人間ではなく天にいます私の父です。」

まだ聖霊は下っていなかったのです。しかし、いまは聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です。」ということはできません。

キリスト教は啓示の宗教です。論理的な結論、哲学的な思弁でイエスがなにものかをわかるものではありません。私たちは幸いです。キリストのとりなしによってイエスは主ですと告白できたのです。聖霊に満たされて歩んでゆきたいと思います。

祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2008年11月10日月曜日

今週の聖句

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。(マタイ7:12)

この箇所は黄金律、あるいはゴールデンルールと呼ばれている有名な箇所です。マタイ7章は人をさばくなと教えている箇所です。その結論としてこの12節が語られています。

人に裁かれないために裁いてはなりません。人を量ってはなりません。あなたの量る計りで計り返されないためです。

人の塵は目につきますが、自分の足もとの梁には気がつきません。

聖なるものを犬や豚にやるなと教えられています。これは比喩で犬や豚は背教者のことです。一度信仰に入りながら、キリストの教えから遠く離れて違った福音に走った人たちのことです。そうした人たちとつきあったり聖なるものを上げてはいけませんと教えています。

このようにイエス様に注意をされますと自分の信仰に迷いが生じたり、悩んだりいたします。そのようなとき求めなさい、捜しなさい、たたきなさいと教えています。あなたの求めているのものを必ず見つけることが出来るのです。

なぜなら天のお父様は私たちの求めている以上のものを与えて下さるお方であることを知っているからです。神様の前に悪い私たちに溢れるばかりによい物を与えて下さるのなら、私たちも父なる神様にならって自分のしてほしいと願うことを他の人にもすべきではないでしょうか。

人にしてもらたいこと、それも相手に気に入るような形で行うことは至難なことです。私は葬儀業を営んでおります。葬儀は究極のサービスだと考えております。

葬儀に見合う対価をいただいて行っているのですが、たまに思いもかけない要求に合うときなかなか12節を実行できない自分を見出します。

しかしイエス様はこれが律法であり、預言者ですと言われます。

言い換えればこの12節に旧約の教え、精神が凝縮されているのです。律法学者、パリサイ人たちのような律法の切れ端、ことばの切れ端のような生き方でなく、どんと自分を投げ出して人のために生きる生き方を教えています。クリスチャンとはこうした生き方を選択することです。

小さな自分、小さな世界から抜け出しませんか。あなたの人生が変わります。

まさにゴールデンルールです。

佐々木 博

2008年11月3日月曜日

今週の聖句

今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。(Ⅰコリント4:13)

わたしはこの言葉に圧倒されます。パウロの私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。パウロは宣教の初めから彼の苦労は並大抵のものではありませんでした。

しかし、キリストのために苦しみをも賜ったのです。(ピリピ1:29)

わたしたちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。艱難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、わたしたちは、私たちを愛して下さった方によって、これらすべての中にあっても圧倒的な勝利者になれるのです。(ロマ8:33,37)

パウロは勝利者でした。彼はキリストのあってあらゆる状況に対処できる知恵をいただいていたからです。その知恵とは私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。と言いうるキリストの奴隷を言い表しています。

この自覚は何処から出てくのでしょうか。いろいろ解説はできると思いますが、私は彼の伝道生活にからみ出された彼の体験だと思います。

パウロはキリストに捕えられて、キリストの奴隷の奴隷になりました。その奴隷になって彼は初めてあらゆるものからの自由を経験したのです。

パウロはキリストの奴隷が彼にとって限りなく喜びであり、彼の「生」そのであったのです。自らの存在をちり、かすと言いうることがが彼の圧倒的な勝利の秘訣でした。

私たちは何と偉いことでしょう。
祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2008年10月26日日曜日

今週の聖句

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにしていればあなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

イザヤ30章はアッシリヤの脅威に対して、ユダがエジプトに頼り、エジプトに貢物をし、同盟を結んで自国の存続と防衛を図りました。その愚かさと罪深さを指摘したものです。

その中で神様は立ち返って、静かにすれば、救われると語っています。
大きな危機が訪れるとき、私たちはなにを信じているのか忘れてしまうことがあります。長いこと信じているようで信じていないのです。まず自分の信仰を吟味する必要があります。

静かにしていれば救われるのです。わたしたちは騒ぎたち、目に見えるものによって解決をしようとします。ユダはエジプトの軍事力に頼りました。わたしたちも、権力、お金、地位などによって物事の解決を図ります。

しかし、静かにして、起きた出来事の本質、目的、意味を考えることが大事です。神の許可なくすべてのことは起こりません。私たちに起こる出来事はすべて神様の許しがあってのことなのです。そこには神様の恵みの意図があるのです。無駄に無意味に試練にあうことはないのです。

パウロは「神を愛する人々、すなわちご計画に従って召された人々のためには、すべてのことを益に代えて下さるのです」(ロマ8:28)と書きました。

落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る。信じているイエス様がどのようなお方か分かれば信頼できるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない」(ロマ10:11)

イエス様に信頼すれば、解決の知恵、方法、力を得ることができるのです。

しかし、あなたがたは、これを望まなかった。と。(イザヤ30:15)
このようなわたしたちに。それゆえあなたがたを恵もうと待っておられ、あなた方をあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。(イザヤ30:18)

わたしはここに放蕩息子に対する父親の姿がダブります。
ここに福音があります。
幸いなみなさんに祝福をお祈りします。

佐々木 博

2008年10月20日月曜日

今週の聖句

してみると、あなたがたも、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ1113

ルカ伝は祈りの福音書といわれるほど祈りについて教えています。イエス様自身がたびたびお祈りをした姿が描かれています。イエス様が洗礼を受けたとき、12弟子を選ばれる時、72人の伝道報告を受けたとき、あるいは変貌の山での出来事、そしてこの11章のはじめイエス様の祈る姿が「主の祈り」を教える契機になりました。また最後の晩餐、ゲッセマネでの祈りが記されています。

求めなさい、捜しなさい、たたきなさいと命じられた後、だれであっても求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれますと約束が保証されています。ですから私たちは願いを得るまで熱心に祈るべきとを教えられています。

ここでわたしたちが求め、捜し、たたいて得るものは何でしょう。人の父親が子どもの求める以上の良い物を与えることが、父親として普通のことであるなら、天のお父様はそれ以上の良い物、聖霊を与えて下さるというのです。

私たちにとってベストなものそれは聖霊です。
聖霊は私たちに力を与えてくださいます。私たちを助けて下さいます。聖霊を求めて力をいただきますと私たちは変えられます。
証人としての力です。使徒18にあります地の果てにまでキリストの証人になる力です。
この力は私たちを愛の人に変えます。

神を愛し、人を愛する力です。自己中心から神中心の生活へと変える力です。また人を赦し、理解する力です。私たちを神の証人にふさわしく変えるものです。
キリストをもっと深く理解する力です。

キリストの生涯で最も大きな特徴はその従順さです。自分を卑しくし、死にまで従い、実 に十字架の死にまで従われました。(ピリピ28)

私たちもこの従順さにならうことが必要です。御霊に満たされた生活は主の従順に習うことができます。

また御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ522)実を結ぶ人生は御霊によるのです。御霊は一つです。御霊を受けるとこの9つの実を結ぶことができるのです。

こうした素晴らしい聖霊の贈り物を得るためにイエス様は求めない、捜しなさい、たたきなさいと教えています。


祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2008年9月4日木曜日

新約聖書 マタイによる福音書11章28~30節

すべて重荷を負うて苦労している者は、
わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、
わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたの魂に
休みが与えられるであろう。

わたしのくびきは負いやすく、
わたしの荷は軽いからである。

(新約聖書 マタイによる福音書11章28~30節)

幕張本郷クリスチャンコミュニテイの3原則

1.開かれた集会です。
  外に対して、内に対して
2.変化してゆく集会です。
  時代と共に変わって行く集会です。
3.必要に応える集会です。

私のこれから始めようとしています集会は3H集会です。
3Hとは開かれた集会であり、変化してゆく集会であり、必要に応える集会です。この言葉をローマ字でつづりますとみな頭にHが付きます。HIRAKARETA、HENNKA、HITUYOUです。

1.開かれた集会とはよく言われる言葉です。しかし私はこの開かれたという意味を次のように定義をしたいとおもいます。

外に対しては教団教派にこだわらない超教派の立場をいいますが、むしろ内に対して心が開かれた教会という意味です。私たちは罪の奴隷でした。その奴隷状態から解放してくださったのがイエス・キリストの十字架です。

それは御霊により心が開かれ、御言葉を心に留め、救いを受け入れることを意味しています。

開かれた集会とは、集会自体も聖霊のご支配をうけ、御言葉に満たされ、御言葉によって歩む集会を意味しています。また集う私たち一人一人も聖霊により心が満たされ、十字架により罪から解放され、心開かれた者たちの集まりです。神に赦された自分、また他の兄妹姉妹も同じく罪許されたものとして、お互いに御霊に心開らかれてイエス・キリストを受けいれた者同士の集会です。

2.変化してゆく集会です。

救いの基本は変わりません。滅びに至るものにとっては十字架の言葉は愚かであります。しかしそれ以外のものは時代と共に変わって行くものです。賛美、礼拝、奉仕、言い換えれば集会のありよう自体が変わらなければと思います。

聖書の時代に24時間働くことは考えられませんでした。また今日のような多様な業種が生じることも考えられませんでした。ですから礼拝厳守でありますが、聖日厳守ではありません。賛美も賛美歌オンリーではなく、それぞれの讃美があるとおもいます。

礼拝も日曜日だけの礼拝が礼拝でしょうか。日曜日の午前でなければ礼拝でないような風潮が今なお色濃く日本の教会にはあります。しかし歴史を考えれば、使徒時代、ローマの迫害時代、ローマ政府によるキリスト教公認から中世の産業革命以降から現代までと礼拝のありようも変わってきています。

教会史を見ればそれは明らかです。わたしたちは今なお古い革袋に包まれています。時代に対応できなければ福音は生きて働きません。

3.必要に応える集会を目指します。

教会は霊的な共同体です。イエス・キリストを長子として、教会を建て上げるために集められました。

この霊的な教会を建て上げるために、召されたものに賜物が与えあられ、役割が与えられキリストの体なる教会のために用いられるのです。しかし、これは恵です。恵は強制されるものではありません。この賜物を見出し、人の必要に応えてゆくことの中に自分の必要も見いだせると考えます。

現代のニーズは多種多様です。しかし、人は必要とされ、自分の存在価値が認められ、自分の居場所のあるところに集まるのではないでしょうか。

そうした自分の必要を見つけ出すことのできる集会です。

(私たちは聖書信仰に堅くたつプロテスタント教会です。)