2008年9月4日木曜日

新約聖書 マタイによる福音書11章28~30節

すべて重荷を負うて苦労している者は、
わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、
わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたの魂に
休みが与えられるであろう。

わたしのくびきは負いやすく、
わたしの荷は軽いからである。

(新約聖書 マタイによる福音書11章28~30節)

幕張本郷クリスチャンコミュニテイの3原則

1.開かれた集会です。
  外に対して、内に対して
2.変化してゆく集会です。
  時代と共に変わって行く集会です。
3.必要に応える集会です。

私のこれから始めようとしています集会は3H集会です。
3Hとは開かれた集会であり、変化してゆく集会であり、必要に応える集会です。この言葉をローマ字でつづりますとみな頭にHが付きます。HIRAKARETA、HENNKA、HITUYOUです。

1.開かれた集会とはよく言われる言葉です。しかし私はこの開かれたという意味を次のように定義をしたいとおもいます。

外に対しては教団教派にこだわらない超教派の立場をいいますが、むしろ内に対して心が開かれた教会という意味です。私たちは罪の奴隷でした。その奴隷状態から解放してくださったのがイエス・キリストの十字架です。

それは御霊により心が開かれ、御言葉を心に留め、救いを受け入れることを意味しています。

開かれた集会とは、集会自体も聖霊のご支配をうけ、御言葉に満たされ、御言葉によって歩む集会を意味しています。また集う私たち一人一人も聖霊により心が満たされ、十字架により罪から解放され、心開かれた者たちの集まりです。神に赦された自分、また他の兄妹姉妹も同じく罪許されたものとして、お互いに御霊に心開らかれてイエス・キリストを受けいれた者同士の集会です。

2.変化してゆく集会です。

救いの基本は変わりません。滅びに至るものにとっては十字架の言葉は愚かであります。しかしそれ以外のものは時代と共に変わって行くものです。賛美、礼拝、奉仕、言い換えれば集会のありよう自体が変わらなければと思います。

聖書の時代に24時間働くことは考えられませんでした。また今日のような多様な業種が生じることも考えられませんでした。ですから礼拝厳守でありますが、聖日厳守ではありません。賛美も賛美歌オンリーではなく、それぞれの讃美があるとおもいます。

礼拝も日曜日だけの礼拝が礼拝でしょうか。日曜日の午前でなければ礼拝でないような風潮が今なお色濃く日本の教会にはあります。しかし歴史を考えれば、使徒時代、ローマの迫害時代、ローマ政府によるキリスト教公認から中世の産業革命以降から現代までと礼拝のありようも変わってきています。

教会史を見ればそれは明らかです。わたしたちは今なお古い革袋に包まれています。時代に対応できなければ福音は生きて働きません。

3.必要に応える集会を目指します。

教会は霊的な共同体です。イエス・キリストを長子として、教会を建て上げるために集められました。

この霊的な教会を建て上げるために、召されたものに賜物が与えあられ、役割が与えられキリストの体なる教会のために用いられるのです。しかし、これは恵です。恵は強制されるものではありません。この賜物を見出し、人の必要に応えてゆくことの中に自分の必要も見いだせると考えます。

現代のニーズは多種多様です。しかし、人は必要とされ、自分の存在価値が認められ、自分の居場所のあるところに集まるのではないでしょうか。

そうした自分の必要を見つけ出すことのできる集会です。

(私たちは聖書信仰に堅くたつプロテスタント教会です。)