2009年2月23日月曜日

今週の聖句

私は、悩む者、貧しいものです。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。詩篇70:5
 
私は悩みます。苦しみます。信仰が与えられ、あたらしい人生を歩みはじめました。しかし、自分が愚かで、弱く、神の御心に従うことのできない存在に気が付きます、今までにない悩みです。信仰から来る質の違う悩みです。

これはどんなに長い信仰生活を送っていても、形を変え、質を変え生涯ついてきます。
 
しかし、これが信仰のヤスリです。私たちの思いのとがった部分は削りとられなければなりません。

この悩みによって自分の霊的な貧しさに気が付き、信仰が深められるのです。霊的成長を促す神の愛です。
 
この悩みから救ってくださるのは神ご自身です。

あなたは、私の助け、私を救う方です。主よ遅れないでください。私の悩みは深いのですから。
 
祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2009年2月16日月曜日

今週の聖句

きょう、もしわたしの御声を聞くならば、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のようにあなたの心をかたくなにしてはならない。(詩篇95:8)
 
詩篇95編は私たちがどのような態度で礼拝を守るかを教える個所です。この後、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながらわたしをこころみ、わたしをためした、と続きます。
 
これはきょう神の御声を聞く時、私たちのとるべき態度を教えています。メリバとマサでの事とは何でしょうか。彼らはモーセに率いられて紅海を渡り、マラでは苦い水を甘い水に変えられ、天からのマナを食べ、うずらを飽きるほどに食べました。すべてが「わたしのわざ」神様の恵みです。
 
こうした奇跡を体験したイスラエル人の全会集は神の命によりシンの荒野を旅たち、旅を重ねてレフィディムに宿営しました。

しかし、そこには民の飲む水がなかったのです。

それで民はモーセにつぶやき「なぜわたしたちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」と言って私をこころみ、わたしをためした。これはモーセに対する抗議ではなく神に対する不信仰のあらわれでした。
 
神をこころみたのです。本来であるならここで、今までの恵みをおぼえて主に信頼し祈るべきでした。

しかしそれをせず、不満をモーセ、否神にぶつけたのです。これがメリバ、マサの事件です。
 
神の御声を聞く時心をかたくなにするな、これは神の警告です。わたしたちは礼拝でデヴォ―ションで神の御声を聞く時、私たちの応答の責任を問うているのです。心をかたくなするとは、聞いた言葉を無視し、聞き従わず、応答しないことです。わたしたち御声を聞いていますか。
 
佐々木 博

2009年2月11日水曜日

今週の聖句

しかし、必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはそのよいほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。ルカ10:43
 
この対照的な姉妹は私たちに奉仕の本質を教えくれます。私は先週めちゃめちゃに忙しい1週間でした。葬儀が2件入りました。それも家内の姉が土曜日に亡くなりました。わたしの思いはこの二つの葬儀に集中してしまいました。また今週も10日火葬、11日記念会と続きます。忙しいことは大変喜ばしいことですが、たくさんの思い煩いを起こさせるものです。それなりに毎日デヴォ―ションの時を持っていたのですが十分ではなかったことに気がつかされました。それはマリヤのように聞くことをしなかったのです。
 
マルタとマリヤの違いはイエス様中心か、自分中心かの違いではないでしょうか。二人ともイエス様を愛し、尊敬しどちらも精いっぱいイエス様をもてなす気持ちがあったことだと思います。そのもてなし方が違いました。イエス様はマルタを批判していません。否マルタは自分の気持ちの赴くままに肝心の大事なことを忘れてしまって心乱れ、思い煩ってしまいました。
 
大事なことは主の足元で主の御声を聞くことです。御言葉のことを差し置いてマルタはイエス様の接待に心が奪われました。

わたしに与えられた仕事は牧師と葬儀業です。私にとってどちらが上とも下とも考えたことはありません。ともに神様から与えられた主の仕事です。わたしが間違ったのは、その仕事の忙しさにまぎれ、次々にいろいろなことを考え思い煩ってしまったことでした。シンプルに仕事をきちんと果たして、主の御前でイエス様の御声を聞く、この大事なことがおろそかになったのです。順序が逆になりました。御声を聞いて仕事に励むべきでした。
 
その結果、心が落ち着きませんでした。あれやこれや集中出来ませんでした。こんな経験ありませんか。どんなに時間がなくてもひと時、主の前に聖書を読み、主の前にたち、御声を聞く、新しく力と知恵が与えられます。
 
お祈りしています。

佐々木 博

2009年2月2日月曜日

今週の聖句

塩は、ききめのあるものです。しかし、塩に塩気がなくなったら何によって塩気をとりもどせましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩気を保ちなさい。そして和合しなさい。(マルコ9:50)
 
わたしたちが和合する秘訣は、お互いに自分自身の中に塩気を保ちなさいと聖書は教えます。塩が塩である第一の理由はその効き目です。多すぎず、少なすぎず、隠し味としてその存在理由があるのです。
 
塩はそれ自身で味を持っていますが、塩は自分を隠して砂糖を醤油の味を引き立てます。砂糖はより甘くなるのです。
 
そして腐敗を防止します。自身の存在を隠して腐敗を防止します。塩は自分の味をしっかり主張しますが、他の味を引き立てる上で欠かすこのできないものです。
 
流す涙に、汗に、血にも塩が含まれています。塩はいのちです。海は塩に満ちています。全てのもの包み、受け入れ生かします。しかし海は海です。
 
この塩気を私たちは保っているとき生きているのです。他者を生かす存在として生きているのです。

祝福をお祈りしています。

佐々木 博