2009年3月30日月曜日

今週の聖句

しかし、神は知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。Ⅰコリント1:27
 
救いの不可思議を感じます。世的な基準からいえば知恵ある者、強い者が歓迎されます。

教会は何となく、気弱な者、意気地のないもの、何か人生に悩みを抱えている人たち、貧しい人たち、うまく生きていけない人たち、体の病んだ人の集まるところといったイメージがあります。
 
こうしたイメージを抱えて忸怩たる思いを持って教会に通っている人もいることでしょう。福音は自信満々の人、自力で何でもできると考えている人、世の出世競争に勝ち残る自信家にはなんの力も提供できません。
 
実際にこれらの人は世の中の1%もいないのではないでしょうか。こうした人たちは勝つ自信がゆらぐ時が来ないかぎりはこの出世競争が楽しみなのです。

生涯一度も挫折のない人生はないのです。
 
年老いて孤独をかみしめる時が来るのです。介護を必要となる時が来るのです。現在でいえば職を失う不安、健康を失う不安、離婚の危機、親子関係、ありとあらゆる危機的な状況に私たちはおかれています。

イエス様の時代も同じです。イエス様をとりまく多くの群衆は飼うもののいない羊のようでした。今と状況は変わりません。ことの本質は今も昔も変わりはないのです。
 
こうした群衆に心の貧しいものは幸いだと語りかけたのです。悲しむ者は幸いだと言われたのです。

自分の人生の中に神の存在を認め、自分の愚かさ、弱さを認め、神の前に正しい人生を生きてゆくことが求められています。そう、教会はこうした人たちのためにいつも開かれ、福音が語られています。
 
祝福をお祈りします。

佐々木 博

2009年3月24日火曜日

今週の聖句

ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて、わたしが苦しむことがないように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。Ⅰ歴代誌4:10

有名なヤベツの祈りです。今から7,8年前にちょっとしたブームになったものです。私は毎日家内とこの祈りをデヴォーションの後夫婦二人で唱和します。昨日は二つの葬儀を同時並行で行っていました。同じ斎場、同じ火葬時間でした。珍しいケースです。一件の葬儀に市役所から書類上のミスがみつかったので、火葬の許可を取り消します、というものでした。二つの葬儀にスタッフが張り付いていますので、人数的に余裕がありません。また時間的に難しい状況でした。わたしが動くしかないのです。

市役所は申請人に問題がある、申請人を正規なものにしなければ許可を下ろすことは出来ない、この一点張りでした。しかし、20日には火葬許可証は下りているのです。彼等のミスは受付け時にありました。このところをせめてなんとかしてくださいと談判をしました。市役所の方も努力してくださり結果は無事に葬儀を終えることができました。

火葬の中止の電話には驚きました。しかし落ち着いて考えますと私どもに何一つミスはないのです。火葬許可書も20日の時点で正式のものをいただいていたのですから。今回は私の信仰をためされました。主に信頼すること、御言葉に頼ることを実感しました。

御手がわたしとともにあり、災いから遠ざけてください。

アーメン。平安をお祈りいたします。
 
佐々木

2009年3月16日月曜日

今週の聖句

「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。」マタイ9:11、12
 
マタイの召命のあと、マタイの家で取税人や罪人たちおおぜいと、イエス様とイエスの弟子たちとがいっしょに食卓についていた。これを見たパリサイ人がイエスの弟子たちに言った言葉です。
 
当時の宗教家、パリサイ人や律法学者の目から見るならば、取税人、罪人と席を同じくすることは、自ら汚れることを意味していました。
食卓を囲むことは和解を意味していましたし、彼らの友人あるいは味方、または彼らの世界に身を置くことでした。
 
イエス様について当時の人々は、バプテスマのヨハネ、エリヤ、またはエレミヤまたは預言者の一人だと考えていました。ですからイエス様の行動はこうした自らの立場をなくすようなものでパリサイ派の人たちには理解できないものでした。
 
パリサイ派の人々の疑問は当然のことでした。それに対してイエス様の答えは不思議なものでした。医者を必要とするのは丈夫なものではなく病人です。医者は感染症の患者でも、どんな種類の病人でも病人のそばに立ちます。患者のそばで話をし、必要を聞きます。イエス様は医者です。同じルカの4:23で「医者よ、自分を治せ。」ということわざをひかれ、ご自分が医者であることを自覚していました。パリサイ派の人たちのように自分の聖さのみを求めて交わりを拒否するような生き方ではなく、病める人の必要に気が付き、そうした人々とともにいることが大事なんだといわれているのです。
 
平安をお祈りしています。
 
佐々木 博

2009年3月9日月曜日

今週の聖句

わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかなところから呼び出していった。あなたはわたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。イザヤ41:9
 
神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で、聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:4)パウロもイザヤも同じことをいっています。私たちの救いは、神のはかり知れないご計画のうちにあるのです。

ただ有難いとしかいいようがありません。神の救いに与るとはただこういうことなんだと信じるほかはありません。
 
私は20歳で洗礼を受けましたが、生涯信仰を持ち続ける自信はありませんでした。洗礼準備会の終わりに、毎回先生から生涯信仰生活を送る自信のない者は洗礼を受けなくともよいといわれたものです。毎回溜息でした。
 
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなた方を選びあなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)この聖書の言葉でわたしは安心をして洗礼を受けました。いままたわたしはあなたを選んで、捨てなかった。

神様が拾ってくださっていなければとっくに信仰などなかったことでしょう。神様の憐れみをただ有難いと思います。
 
今週も平安でありますように

佐々木 博

2009年3月2日月曜日

今週の聖句

私の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4

高価で尊い存在とは

1.私たちは神に似せて作られました。知・情・意を持つものとして造られました。

神は「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。」神はこのように、人をご自身のかたちに創造されました(創世記1:27)。

2.かけがいのない存在として造られました。

世界で唯ひとりの存在です。

世界でただ一つの花。スマップが歌って200万枚売れました。

この歌は「No.1 にならなくてもいい、もともと特別なOnly one」で始まり、「小さい花や大きな花 一つとして同じものはないから No.1 にならなくてもいい もともと特別なOnly one」で終わります。私たちはみな一人一人です。一つ一つの花と同じく「もともと特別なOnly one」なのです。
   
現代の社会は競争社会です。進化の社会です。ここには相対的な価値しかありません。結果がすべての社会です。しかしわたしたちは、神様からひとりひとりがかけがいのない存在として造られ、愛されているのです。

3.人生のおもな目的は何であるか。

人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。(ウエストミンスター 問1)

神の栄光をあらわすことは、神様を礼拝することです。

人は体と心と霊の3つから成り立っています。この霊的な部分は眞の神に出会うまで満足しないのです。

わたしたちは霊的な存在として造られ生かされています。だから尊いのです。
 
主の豊かな祝福をお祈りします。
 
佐々木 博
047-486-1981