2009年4月27日月曜日

今週の聖句

御手が私とともにあり、・・・(歴代誌4:10)
 
有名なヤベツの祈りの一節です。ヤベツは不思議な人物です。士師の時代にユダ族に生れ、その出生は大変不幸なものであったようです。彼の母親が「悲しみのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけたと書かれています。
 
ヤベツは生まれながらにハンデを背負っていました。その彼の人生を変えたのがヤベツの祈りです。イスラエルの神を信じました。このお方こそ自分の人生を変えるのだと信じたのです。祝福を求め、地境を広げていただきました。
 
ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられました。彼は大きな祝福をいただき、彼の働きは急拡大しました。彼の手の届く領域を超えたのです。地境が広がるとき勢いがあります。何でもできると錯覚します。しかし、自分の能力を超えた世界では無力さを感じます。こうしたとき私たちは神の御手を求めるのではないでしょうか。神の御手とは私たちの人生における神の力と臨在を経験することです。自分の信仰、自分の祈り、自分の奉仕と言っている段階では御手を経験することはできません。

しかし、自分に失望し、自分の無力さを感じたとき、私たちは御手を必要としているのです。わたしたちはただ主に信頼して生きるようにと召されているのです。

祝福をお祈りしています。
 
佐々木

2009年4月20日月曜日

今週の聖句

そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで許すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などどはわたしはいいません。七度を七十倍するまでと言います。」マタイ18:22
 
罪の誘惑は必ず来るものです。教会と言えども世の例外ではありません。むしろ誘惑に弱い人々の集まりです。その弱さゆえに救われたのですが、またその弱さゆえに多くの罪にさらされています。ですから、賢く解決の仕方だけは、この世のものとは違ったものでなければなりません。
 
ペテロが尋ねているのは、兄弟が一般的な罪を犯した場合ではなく、私に対して罪を犯した場合です。当事者が私ですから、腹立ちも激しく、怒りも大きいのです。なかなかゆるすことなどできません。どの程度ゆるすべきなのでしょうか。
 
ペテロは思い切って七度まででしょうかと尋ねます。当時の教えからいえば三度まです。ですからペテロの七度までというのは考えられないほど寛大なものでした。しかし、イエス様のお答は七度までなどとはいいません。七度を七十倍するまでといわれます。言い換えればゆるすこととは無限にゆるし続けるけことだけが本当のゆるしなのです。
 
「クリスチャンであるとは、ゆるしがたい人々をゆるすことである。神があなたがたの中にある、赦しがたいものをゆるして下さったからである」とC・Sルイスはいっています。
 
平安をおいのりしています。
 
佐々木 博

2009年4月13日月曜日

今週の聖句

そこでふたりは話し合った。「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」ルカ24:32

イエス・キリストの大事件、それはエルサレムでイエスが十字架にかかって死んでくださったことであり、そのイエス様が蘇ってくださったことです。
 
復活の主がこの二人の弟子に現われて「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださった時、私たちの心は燃えていたではないか。」と語りあった。

イエス様が聖書を説明して下さることによって私たちの心は熱くなり燃え立ちました。
 
モーセとすべての預言者から始めて聖書全体にわたって、「メシヤはこういう苦しみを受けて栄光に入るべきだ」ということをイエス様が説明してくださいました。

それは、心が燃えるという、聖書を読む者の心のうちに変化を起こします。

さらに45節、そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われた。

「心を開いた」とまでいわれています。

聖書全体がメシアの苦難と栄光を語っているというキリスト教独特の旧約聖書の読み方をするためには普通の読み方ではだめなのです。

心が燃やされたり、心が開かれなければ、わたしたちに内的変化が起きなければ無理なのです。

心躍り、目が開かれて旧約を見る時、イエス・キリストの苦難と栄光を理解し、信じることができるのです。
 
祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2009年4月6日月曜日

今週の聖句

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのである。ヨハネ13:15
 
今日から受難週に入ります。多くの教会で早天祈祷会がもたれ、今週の金曜日には受難日礼拝が持たれることでしょう。

この聖句はイエス様が十字架にかかれられる前の日、過ぎ越しの祭り前の晩に弟子たちと夕食を共にされ、その席上でイエス様が弟子たちの足を洗われた記事です。弟子たちが先生とも主とも呼んでいたイエス様が弟子達の足を洗いました。だからあなたがたも同じようにしなさい。イエス様の命令です。
 
このことは謙遜と奉仕の姿の手本として何も言うことができません。そのとおりです。しかし、イエス様がここで言われていることは、わたしがあなたがたにしたことを、あなたがたもするようにということではなく、「わたしがあなたがたにしたとおりに」、同じようにあなたがたもすることなのです。イエス様がしたことはただ弟子たちの足を洗ってふいただけです。表面的なことではなくイエス様が弟子たちの足を洗った本当のお気持ちを理解してわたしたちが行っていくことなのです。
 
その第一は主であり教師であるイエス様が奴隷になって足を洗われたことです。 

同じ奴隷でもへブル人奴隷のする仕事ではありませんでした。それほどに人の足を洗うことはいやしい仕事でした。それほどにイエス様は謙遜でした。

私たちは自らが奴隷になって他者の足を洗うことが求められています。いつの時代でも、人に仕えることはなかなか難しいことです。しかしイエス様が手本を示されたのでわたしたちもそのようにすべきなのです。
 
この奴隷となる、それはイエス様の愛の表現でもありました。13:1に世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。この残るところなく示された愛の姿が弟子の足を洗う行為でした。愛のゆえに弟子の足を洗われたのです。

その極みが十字架の死でした。「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大いなる愛はない。」とイエス様は言われました。この洗足の原理は二つです。仕えることと愛することです。また私たちが世に証しをする姿でもあります。
 
祝福をお祈りしています。
 
佐々木 博