2009年8月23日日曜日

今週の聖句

ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。(Ⅱサムエル24:10)

ダビデの率直な信仰の現れです。不思議な事件です。ダビデが心動かされ人口調査を行いました。しかし、これが罪へのいざないだったのです。

人口調査はこれからの国の体制維持や外敵への備えを考えると、むしろ必要と思われた。しかし、ここに罪のいざないの不気味さがあります。

王の命令でヨアブと将校たちはイスラエル全土を調査します。ユダとイスラエルの兵士合わせて130万というのです。

しかし、ダビデは兵士を数えた後、良心の咎めを感じました。

ダビデが良心の咎めを感じたのは130万の兵士を持つ魅力とその頂点にたった自分自身に満足したときです。
得たいと思っていたものが手に入り満足する時、その満足したものが空しさとなり、自信は不安となります。

頼っていたものがいつの間にか、主ではなく目に見えるもの、自分自身に変わっていたからです。こんな経験ありませんか。

落ち込んでいる時、悲しんでいる時、神が遠く感じる時、幸いです。あなたの信仰が大きく成長する時です。

彼に信頼する者は、失望させられることがない。(ロマ9:33)

祝福をお祈りしています。

佐々木

2009年8月17日月曜日

今週の聖句

みことばを実行する人になりなさい。
御言葉を聞いて行わない人がいるなら、その人は自分の生れつきの顔を鏡で見る人のようです。自分から眺めて立ち去ると、すぐにそれがどのようなものであったか忘れてしまいます。
ところが完全な律法、すなわち自由な律法を一心にみつめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、ことを実行する人になります。こういう人はその行いによって祝福されます。
(ヤコブ書1:23,24,25)

クリスチャンがみ言葉を実行する人になるのはむずかしい問題です。

ここにその秘訣が書かれています。クリスチャンが聞くだけの人に終わってはいけません。聞くだけの人は、その人の生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に移った自分の姿をみても、立ち去るとそれがどのようなものであったかをすぐ忘れてしまいます。

しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は聞いて忘れる人でなく行う人です。

御言葉を聞くだけでなく行う人はじぶんの顔を鏡に映して一心にじーと見つめている人です。聞くだけで行わない人はさっとみて、ぱっと立ち去る人は自分を欺くのです。

ぱっと見て立ち去る人はじぶんの本当の姿をわすれて、ありもしない何か偉い者のように、現実の自分より優れた者であるかのように自分を欺くのです。

御言葉を聞いて行う人と言うのは、自分が何者であるかという自分の正体をずっと見続ける。高ぶることなく、いつも神のもとに謙遜に、自分はこの程度でしかない。自分という者は神様のお力にすがらなければ歩けない。そういう自分の低さ、弱さ、醜さを見続ける、このためにみ言葉を聞くだけでなく行い続けることが大切なのです。

言い換えればみ言葉を受け入れ信じることなのです。

祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2009年8月10日月曜日

今日の聖句

万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も、主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ書1:16)

全存在の意味と目的が書かれています。そう、すべてはイエス・キリストによって造られ、イエス・キリストのために存在するのです。全ては神から始まるのです。

私たちはどこから出発するのでしょうか。誤った出発点は「自分」からスタートすることです。

わたしは何になりたいのか。私は何をなすべきか。私の目標は、私の願いは、私の将来は。すべてあやまちは私からスタートすることにあるのです。わたしの成功を願い、わたしの幸福を求めるのです。

聖書はイエス・キリストが万物の目的であり、また原因としてふさわしいお方であると書いています。(へブル2:10)

わたしたちが真に安息を得、幸福になるのは神の意図する人に変えられ、神の意図した人生を送ることです。その中心はイエス・キリストです。

わたしたちが存在し、生かされているのは神がそのように意図し、そのように生きるのをゆるされているからです。神の憐れみが豊かであることを感謝いたします。

神の祝福をお祈りいたします。

佐々木 博

8月16日は1周年記念感謝礼拝が午前11時からあります。お祈りください。

2009年8月3日月曜日

今週の聖句

わたしにとっては、生きることはキリストです。(ピリピ1:21)

わたしはキリストととも十字架につけれました。もはやわたしが生きているのではなくキリストがわたしのうちに生きておられるのです。(Iコリント2:26)

パウロにとって生きることはキリストです。他に選択肢などありませんでした。ただひたすらキリストに生き、キリストを宣べつたえたのです。単純に生きることは大変難しいことです。信仰も同じく虚飾をなくし、背伸びをせずに、与えられられた仕事を一生けん働くことが、「生きることはキリスト」なのです。

今の時代は出来るだけ複雑に虚飾をかざり、いかに自分をうまくいかすか、自己主張の中に生きています。そんな風潮の中で「生きることはキリスト」とシンプルに言えたらどんなによいでしょう。

キリストが共にいてくださいます。
祝福をお祈りしています。
佐々木 博