2009年10月19日月曜日

今週の聖句

そのようなことを心に留めなさい。(ピリピ4:8)

(1)すべて真実なこと、(2)すべての誉あること、(3)すべて正しいこと、(4)すべての清いこと、(5)すべて愛すべきこと、(6)また評判の良いこと、(7)すべて徳と言われること、(8)称賛に値することがあるならば、そのようなことをこころにとめなさい。

パウロは、私たちの国籍は天にありますとかたり、天国の国籍を持つ者にふさわしい生活をするように教えました。ここでその具体的な項目を述べています。

まず第1に真実なこと、いいかえれば、神に対しても人に対しても正直に生きることです。

私たちは二重の生活をしています。教会生活と社会生活です。二つの生活をしています。信仰に筋が通って無いのです。神に対して、人に対して正直に生きることです。すべて誉あること、世の中には私たち以上に人格的、社会的に御奉仕や社会活動をしている方々が大勢います。そうした人々に私たちは学ぶべき点がたくさんあるのです。

パウロは愛すべきこと、と述べました。魅力的なこと、人を引き付けることといった意味があります。

私たちの日常は、どんな証しの生活でしょうか。わたしたちは親切、思いやり、同情、寛容の精神で、周りの人から、なぜあの人はあんなに親切で思いやりがあり寛容なのだろうと証しされるほど、魅力的になってください。そして人を引きつけてよき証しを立ててください。

すべて徳と言われること。ピリピは異教社会です。わたしたちは偶像礼拝を避けますが、そうした異教文化に対して、異教文化の実践者たちから、その生き方を学ぶ余地はたくさんあるのです。

ただ私たちは、こうしたものを心に留めてよき信仰生活を送っているのですが、基本的に私たちは全く堕落をしていて、私たちの力では神を喜ばせることなど、まったく出来ないことを覚えておきたいと思います。

神様の平安と祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティー
佐々木博

2009年10月12日月曜日

今週の聖句

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。(エペソ2:19)

家族が崩壊し、人間関係が希薄になっている現在、改めて教会の存在を考えるのは大事なことです。特に感じるのは、社会も、教会も個人主義にはしり、家族意識がなくなっていることです。私たちは十字架の救いによって教会に神の家族として加えられたのです。

聖書ははじめから人は一人でいるのは良くないといわれて、一組の夫婦をエデンの園に置きました。

人はコミュニティを作り、交わりに生き、家族を作るように造られているのです。その中心はキリストです。

神の家族は自立した相互依存です。多くの肢体から一つの体が出来上がっているように、私たちはお互いを必要としているのです。

神の家族は神の国の住人です。それも聖徒たちと同じ神の住人です。

キリストの十字架に救われ、私たちの国籍は天にあります。天国人として生活すべきなのです。私たちの律法は二つしかありません。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(マタイ22:37,39)

これに加えてあなた方のあいだでは、みなに仕えるものになりなさい。(マタイ20:26)

毎日神を愛し、人を愛し、人に仕える生活を送ることができたら、その人の人生が変わります。人にはできないが神にはできるのです。

主の豊かな祝福をお祈りしています。

佐々木

2009年10月5日月曜日

今週の聖句

ハンナは答えていった。「いいえ、祭司様、わたくしは心に悩みのある女でございます。葡萄酒もお酒も飲んでおりません。わたしは、主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。(Ⅰサムエル1:15)

エルカナの妻ハンナの言葉です。彼女はエフライムの山地に住み、毎年夫エルカナともうひとりの妻ベニンナと3人でシロに上り、万軍の主を礼拝しいけにえをささげていた。ベニンナは子供が与えられていた。ハンナには子供は与えられていなかった。結婚した女性でこどものあたえられないことは大変な苦痛です。アブラハムの妻サライも同じ経験をしました。それはそれは切ないものでしょう。

またこうしたときいらいらさせることを行う人がいるものです。ベニンナです。負け犬に水をかけるような心無い行動をとったのでしょう。ハンナの心は食事を出来ないほどに痛み、悲しんだのです。ハンナの心は痛んでいました。彼女は主に祈って激しく泣いた。祭司エリから見ると酔って祈っているかと思えるほどの祈りであった。主の前にこころを注ぎ出していたのです。

ハンナは幸せでした。自分の心の一番奥にある悲しみ、痛み、苦しみを率直に主に語ることができました。飾った言葉で、美辞麗句で、もっともらしい祈りを祈るのではなく、目の前の問題に苦しみ、闘いながら、その苦しみを主にぶつけてゆく。そんな激しい祈りを私はしたいと思います。全身で苦しみ、悲しみを訴えてゆく、はしためが、あなたの御好意に与ることができますように。彼女の顔はもはや以前のようではなかった。主の解決が与えられました。

祈りとは本体このようなものです。本心から心注ぎ出す。こうしたいのりのできるのも唯主を信じているからのことです。

今週も祝福をお祈りしています。

佐々木博