2010年2月22日月曜日

今週の聖句

そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。(使徒の働き6:1)

今でいう差別です。ヘブル語を使うユダヤ人がギリシャ語を使うユダヤ人を日々の配給でなおざりにしていた。無視していたというのです。これにたいして苦情が申し立てられました。

ペンテコステの日にペテロの説教を聞いて3000人が悔い改めました。また4章では5000人が悔い改めています。理由は人が増えたからです。この数に女性、子供の数を加えますと2万人余りの人々がいたことになります。ヘブル語を話すユダヤ人は神殿を中心に礼拝をし、ギリシャ語を話すユダヤ人は家を中心に礼拝をもっていました。家のない人は路上に天幕を張って路上生活をしていました。二つのグループが誕生したのです。どの組織でも人数がふえると色々なトラブルがふえてきます。

この問題は根が深いものです。差別は日常的に行われていました。ヘブル語を使うユダヤ人は、律法主義的信仰感、家内安全、商売繁盛、夫婦円満、大きい事、強い事は神様の祝福と考えていました。律法的クリスチャンです。そして、ギリシャ語を話すユダヤ人は神の恵からもれていたと考えられ、差別の対象になりました。

こんなことは絶対にいけないことです。許されないことです。新約の信仰はご利益的なものではりません。わたしたちの弱さを通して神の恵みが現れるのです。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。(Ⅰコリント1:26~29)

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
043-275-5254

2010年2月15日月曜日

今週の聖句

地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかなほそい声があった。(Ⅰ列王記19:12)

エリヤは王や神の民に対して、神の御声としての役割を果たす多くの預言者の一人でした。彼は北王国イスラエルがアハブとその妻イゼベルの指導によって誤った方向に進んでいることを憂いていました。

イゼベルによって神の預言者は悪者扱いされ、捕えられたり、殺されたりしました。イゼベルは異邦の出身であり、熱心にバアルの偶像礼拝を行っていました。さらにアシェラの預言者も養っていたのです。そこでどちらが真の神であるかを証明するためカルメリ山で450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者を集め、神の預言者はエリヤ一人でしたが対決し、見事に偶像の神に対して勝利をしたのです。彼は数多くの奇跡を行う人でした。

しかし、この奇跡のあとイゼベルに殺されることを恐れ、いのちを救うために逃げました。心が疲れたのです。神に養われて40日40夜歩いて神の山ホレブに着いたのです。ほら穴で一夜過ごした後、神の前に立ちました。主が通り過ぎられると激しい大風が山々を裂き、岩岩を砕いた。しかし、風の中にも、地震の中にも、火の中にも主はおられなかったのです。いったいどこに主はおられるのでしょう。

するとそのとき主のほそい声を聞いたのです。その声を聞いた時エリヤは納得しました。奇跡や癒しの体験を私たちは求めます。信じています。しかし、実際そのような経験が信仰を持続させ、信仰を深めることはすくないのです。

毎日のデヴォーションのなかで聞く神のほそい声こそわしたちの信仰を確かなものにさせ、神をさらによく知る源なのです。そして神に信頼し、神を愛する信仰こそが本当なのです。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
043-275-5254
日曜礼拝午後3時から
水曜集会午後1時30分から

2010年2月8日月曜日

今週の聖句

話し合ったり、論じあったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らと共に道を歩いておられた。(ルカ24:15)

イエス様が復活してから、マクダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤに現われたのち、エルサレムから11k余り離れたエマオ村にゆく途中の二人の弟子に現われたイエス様の記事です。彼らの関心事はもっぱら近頃エルサレムで起きた出来事、イエスの十字架の事でした。彼らはこの出来事が理解できずにエマオに向かう途中でした。

この時イエス様がこの二人の旅の同伴者になって下さったというのです。彼らは混乱していました。自分たちが信じ従ってきたイエス様が十字架に架かって死んでしまった。このことが分からず不信仰に陥ってしまいました。

この時イエス様から近づいて下さったのです。現代は人との関わりを嫌う時代です。生涯未婚が女性で3人に一人、男性で4人に一人です。行旅死亡人いわゆる行き倒れ、または引き取り手のいない死人のことですが、約3万2千人もいます。

驚くばかりの人数です。孤独な人が多いのでしょう。私たちはこの世では旅人であり、寄留者です。厳しいこの世にあって、困難な時、苦しい時、つらい時、悲しい時、忍耐の時、いやな時、一人さびしい時イエス様から近づいて下さり一緒に歩んで下さるのです。なんとなんとありがたい事ではないでしょうか。私たちは一人ではないのです。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなた方とともにいます。
(マタイ28:20)

イエス様の約束です。

誰も一人ではありません。

平安をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
日曜礼拝 午後3時から
水曜集会 午後1時30分から

2010年2月1日月曜日

今週の聖句

そればかりではなく、艱難さえも喜んでいます。それは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ロマ5:3,4,5)

有名な聖句です。神様の用いる艱難が、現実が書かれています。主は私たちを24時間通して訓練するのです。そんなに信仰は甘くありません。

艱難は肉体的なものに対する外からの苦痛、苦しみを指します。肉体が病み、家族が、夫が、妻が、あるいは兄弟が介護が必要な時、介護を受ける者も介護するほうも大きな艱難を抱え込みます。

艱難は忍耐を生じます。艱難と忍耐はセットです。艱難が来ると忍耐は自動的にスイッチが入り、忍耐が始まります。忍耐は神からの試みです。

その信仰をためし、信仰のテストです。人は必ず死ぬ時、人のお世話になる存在です。お世話する期間が長いか、短いかそれぞれです。

人生には老いも若きも必ずこの艱難に出会うのです。失業、事故、病気等人の知らないものはありません。

そして忍耐を働かせるのです。まさに忍耐です。我慢です。この忍耐の時に自分の人生の有り様、性格、生き方がチェックされ、自分の愚かさ、弱さ、性格等が変えられていくのです。

忍耐によって人格がキリストに似た者とされ、人格、品性の深みが出てくるのです。品性が練られ、幾度も修羅場を越えた老兵は、状況を賢く判断し自分の役割を果たすことができるのです。クリスチャンのしぶとさです。私たちはこうして信仰が練られ、キリストに似た者とされ、天国への希望を持つことができるのです。今は艱難の時代です。この艱難の中にこそ確かな希望があるのです。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニテイ
043-257-5254
佐々木 博
日曜礼拝 午後3時から
水曜礼拝 午後1時30より