2011年10月24日月曜日

今週の聖句

あなたがたは、わたくし達から神の使信の言葉を受けた時、それを人間のことばとしてではなく、事実とおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神の言葉は信じているあなたがたに働いているのです。Ⅰテサロニケ2:13

全くの理不尽な迫害でテサロニケをパウロは後にしました。ならずものを雇ってまで、ユダヤ人はパウロを迫害したのです。こうした状況でテサロニケの人たちは文字通りにパウロの福音を聞いたのです。キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならいないこと説明し、また論証しました。

まさに十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受けている私たちには、神の力なのです。Ⅰコリント1:18神のことばが、事実とおりに神の言葉として信じられたのです。聖書はすべて、神の霊感にによるのです。Ⅱテモテ3:16

私たちはこの神の言葉に生きるものとされました。なぜなら信じている私たちに神の言葉がはたらいて、救いへと私たちを導くからです。

あなたのみことばは、わがが足のともしび、私の道の光です。詩篇119:105

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254

礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

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千葉三浦綾子読書会
11月12日(2時から4時まで)
会費300円
課題図書 続泥流地帯

2011年10月16日日曜日

今週の聖句

神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちは知っています。Ⅰテサロニケ1:4

テサロニケ伝道の様子は使徒の働き17:1~10に書かれています。3回の安息日にわたりパウロは聖書に基づいてかれらと論じ、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証した。その結果幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。また神を敬うギリシャ人が大勢おり、貴婦人たちも少なかった。

しかし、ねたみにかられたユダヤ人の迫害に会い、テサロニケを後にしなければならなかった。パウロが去った後のテサロニケ教会を心配して、テモテをアテネから派遣し、その結果テサロニケ教会の状況が分かりました。彼らはマケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範となったのです。

わずか3週間の滞在です。前後を加えても1ヶ月弱です。その期間に生まれた教会を心配し、テモテの報告を聞き安堵、喜び、教え、諭した手紙です。

彼らはパウロの宣教によって救われました。しかし、彼は彼らが神が愛し神の選びのの結果であると書いています。

聖書は神の選びの歴史です。神はただ単に私たちを選んだのではありません。あのモーセもなざしでえらばれました。あなたは、私の心にかない、あなたを名指しで選び出したのだから。出エジプト33:17

わたしは恵もうと思うものを恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。出エジプト33:19 アーメン。私たちはその他大勢で選ばれたのではありません。わたしがあなたががを選んだのです、とイエスは言われました。

祝福をお祈りしています。

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佐々木 博 
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2011年10月10日月曜日

今週の聖句

自分のものをじぶんで思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、わたしが気前がいいので妬ましく思われるのですか。このようにあとものが先になり、先の者が後になるのです。マタイ20:15,16

この聖句には説明が必要です。天の御国は、自分のブドウ園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は労務者たちと1日1デナリの約束ができると、彼らをブドウ園に送った。さらに9時、12、3時。5時と出かけて行って労務者を雇った。最後の5時から働いた者達から清算した。支払いは同じ1デナリであった。これを見ていた朝早くから働いていた者から文句が出ました。

それに対するイエスのお答えです。主人は朝早くの者に1日1デナリの約束をしました。9時の者にも、12時、3時5時の者にも同じ1デナリを払いました。とうぜん朝早くから働いていた人間は面白くありません。そこで文句をつけたのです。

イエス様はあなたは、私が気前がいいので、あなたの目には妬ましく思われるのですか。この妬ましくと訳された言葉は、ギリシャ語では目が悪くと書かれています。目が悪いと心の目が暗くなります。心の目はあなたの体を明るくするものです。

目が悪いとものを正しく見ることが出来ません。他人との比較でものを考えます。自分が不当に扱われていると考えるのです。世の中、自分が不当に扱われていると思いますとすべてに文句が出ます。しかし、主人は約束の1デナリは支払ったのです。彼は正当な扱いを受けたのです。しかし、他者との扱い、比較でみると不平、不満、文句が出ます。今自分のおかれている立ち位置を確認しましょう。他人との比較ではなく神の関係において正しい位置に立って、自分の評価を考えて下さい。

そうすれば、あとの者が先になり、先の者が後になることはないのです。

秋らしい季節になりました。朝晩は少し寒いほどです。風邪にご注意ください。お祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
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10月22日 語る会(2時から4時まで) 「老い」語る 人生の晩年を共に語りたいと思います。
会費500円
講師 佐々木 博先生

2011年10月3日月曜日

今週の聖句

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。創世記22:1

神様はアブラハムに試練を与えられました。イサクを捧げなさいというものです。イサクは約束の子供です。それも、約束が与えられてから、実に25年目にあたえられた子供です。アブラハム100歳、サラ90歳の時の子供です。ほとんど不可能に思える身体状況で与えられた子供です。アブラハムにとって、サラにとってイサクこそがいのちでした。そのとき、神は試練をあたえたのです。その最も大事なものを捧げなさいと言われたのです。

アブラハムは信仰の父といわれ、人生の節目、節目で確かな信仰のあかしを残してきました。しかし、イサクが与えられ、イサクが若者になった時、今いちどアブラハムの信仰が問われたのです。何故でしょうか。神中心の生活からイサク中心に生活に変わったのです。子の老夫婦にとってイサクはかけがいのない存在でした。

サラはだれがアブラハムに、「サラがこどもに乳を飲ませる」と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。サラのうれしさと誇りのようなものを感じます。神様は私達を愛し、導いて下さいます。しかし、その信仰がほかのものに揺れるとき、私たちの関心が神様から離れた時、もう一度元の信仰に戻すために、試練が与えられることがあるのです。

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。ヤコブ1:12

朝晩涼しくなりました。良き信仰生活が守られますようにお祈りしています。

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佐々木 博 
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