2009年1月26日月曜日

今週の聖句

主よ、われらの神よ。あなたは、栄光と誉と力とを受けるにふさわしい方です。あなたは、万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。(黙示録4:11)
 
この現代の厳しい状況の中で、私たちの存在の確かさを教えてくれるものは聖書であり、信仰です。聖書はイエス・キリストが救い主だとはっきり宣言しています。

私たちは自分の知恵でキリストを主だと考え、信じて救われたと思っています。

しかし聖書は知恵を与えてイエスが主だと信じる信仰が与えられるのだと教えています。

聖書はあなたがたに知恵を与えて、イエス・キリストに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。(Ⅱテモテ3:16)

あなたがたが私を選んではなく、私があなたがたを選んだのです。(ヨハネ15:16)
 
私たちは毎週日曜日礼拝をささげています。自分の忙しい時間をさいて教会に出かけ、礼拝に出席します。なぜそうするのでしょうか。自分の信じる神様が栄光と誉と力を受けるのにふさわしいお方だと信じているからです。また私たちはこの神を礼拝するために創造され、存在しているのです。
 
それゆえに礼拝を守ることは大切なことです。礼拝の中に私たちの存在と目的があるのです。毎日神様と交わりをし、日曜日の礼拝を楽しみにしましょう。

生きる目的を知ることほど元気の出るものはありません。
 
祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2009年1月19日月曜日

集会場所のご案内






JR幕張本郷駅から徒歩10分
千葉市花見川区幕張本郷3-5-30
電話: 043-275-5254



みなさんを心から歓迎いたします。

<集会のご案内>
日曜日午後3時~
水曜日午後1時半~ 聖書入門コース(佐々木担当)
木曜日午前 聖書研究会(旧約、植草担当)

今週の聖句

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒の働き2:42)

約束された聖霊がぺンテコステの日に弟子たちに下りました。聖霊に満たされたペテロの説教を聞いて悔い改め、救われた人々は3000人でした。

彼らは使徒の教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていました。この4つのことをしていたのです。新共同訳では熱心であった。文語訳ではただひたすらつとむと訳されています。
 
かれらは使徒の教えを守ることに、交わることに、パンを裂くことに、祈りをすることに熱心にひたすら努めていました。

初代教会の信仰のあり様が目に見えるようです。
 
彼らのこの一つ一つに専念する信仰はどこからきているのでしょうか。それはペテロの説教を聞いて心を刺されて「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのでしょうか。」と叫んだ人々でした。

御言葉により、聖霊の働きによって、心刺され悔い改めた人たちの姿です。

わたしたちも自分の救いを今一度吟味する必要があります。
 
この熱心を、ひたすら務める一途さを私たちは失っています。いま私たちがこの曲った時代の中で取り戻さなければならないのは愚かとも思えるほどのこの一途な姿です。

教会は閉塞感に満ちています。霊的に停滞しています。クリスチャンの一人一人はとても個人的になっています。
 
信仰の原点「兄弟たち、私はどうしたらよいのでしょうか。」と叫んで悔い改めた時のことを思い起こしてください。

そして、今一度御言葉に熱心に、交わることに努め、パン裂きの奥儀にふれ、祈ることに励んでみませんか。信仰が変わります。
 
主の祝福をお祈りいたします。

佐々木 博

2009年1月12日月曜日

今週の聖句

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのと違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)

ヨハネの福音書は13章から最後の晩餐の記事になります。

過ぎ越しの祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。(ヨハネ13:1)
 
ご自分が十字架にかかり、残される弟子たちの不安を思いやったイエス様の愛に富んだお言葉です。

弟子たちが信じ、このお方こそダビデの再来で、みじめなイスラエルの国を再興し、自分たちもこの再興された国でなにがしかの立場になることを期待していた弟子たちにとって、まして自分の信じるイエスさまが十字架にかかることになろうとは、全く予期しないことでした。ですから最後までだれが一番偉いのだろうかと争っていたのです。
 
予期しない理不尽なこと、不条理なことがまかり通る世の中です。こうした現状をみますと大きな不安や恐れにとらわれてします。弟子たちがこうした状況に会うことになるのです。

解決の道も希望もないように思われます。しかし状況にとらわれないで、一歩退いてイエス様の御言葉を信じ、信頼するとき、この世の与えるのと違ったイエス・キリストの平安に満たされるのです。

主の平安をお祈りしています。

佐々木 博

2009年1月5日月曜日

今週の聖句

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神、ただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)

激動の時代の中に生きています。政治の枠組み、あるいは経済のシステムそのものが変わるような、大きな変わり目、節目に立たされています。

私たちクリスチャンも例外ではりません。その渦の中に巻き込まれもがき苦しんでいる人も沢山いると思います。

信仰をもっているから守られる、苦しみに会うことはない、そんなことはないとおもいます。世の人と同じように苦しみにあい、悩みに会うのです。

そんな状況の中で私たちの生き方は何かといえば、自分の存在を掛けて主なる愛しなさいと神は命じておられます。

歴史を支配し、私たちに最善をなしてくださるお方は、私たちが信じている神ご自身だからです。

時代の不安の中にいます。しかし、愛には恐れがありません。神の完全な愛がキリストによって実現しました。この愛によって私たちの人生が完成へと導かれるのです。ですから安心して神様を愛しましょう。

今年1年皆様の歩みが守られますようにお祈りしています。

佐々木 博

2008年12月29日月曜日

今週の聖句

ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。(ヨハネ6:9)

パン五つと魚二匹で五千人の男を養った記事です。五千人の奇跡です。弟子が言ったとおりです。

パン五つと魚二匹では、こんなに大ぜいの人々ではそれがなんになりましょう。私たちの現実を見るとき、それが何になるでしょう。こういった出来事の連続です。
 
それは自分の見える世界での判断です。人それぞれの経験、知識の範囲内でしか物事を判断できません。そして結論を出してしまいます。

弟子たちの結論もそうでした。五千人もの人がいるのにわずか五つのパンと魚二匹それがどんな役に立つというのでしょう。

イエス様の世界は違います。

捧げられたパンと魚、これがどれほどこの少年にとって大事なものであるかを知っていました。

彼らの貧しさは一日中イエス様につき従いながら、誰も自分の食べる食事を持っていなかったことからもわかります。社会的にも相手にされない人々でした。

イエス様は少年の犠牲に対してあふれるほどの恵みをもって報いてくださいました。五千人が食べてなお余ったのです。これほどの祝福があるでしょうか。

自分の存在自体が、あるい自分の犠牲が何になるでしょうと思えるほどに小さなものであったにしても、その価値を認め豊かに恵んでくださるイエス様に目を向けましょう。

主の祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2008年12月22日月曜日

今週の聖句

マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。ルカ2:7
 
クリスマスおめでとうございました。
昨日私はクリスマス礼拝、祝会と1日楽しみました。皆さんはいかがでしたか。

キリストがお生まれになった。その御降誕をお祝いする日がクリスマスです。現代は不安と恐怖の時代だと思います。つい8月に北京オリンピックで世界中が沸きました。

今はどうでしょうか。世界的な大不況で毎日契約社員、あるいは非正規社員のリストラです。

この寒い暮れに会社からリストラされた社員の方々は大変です。寮を追い出され、住むところなく、収入も無くなるのです。私たちの社会はこうした弱い人たちの犠牲の上に成り立っていたことを今回の不況は浮き彫りにしました。

到る所で強者の論理で物事が切り捨てられています。人が人扱いされなくなっていとも簡単にリストラされます。

イエス様の時代も同じでした。サドカイ派、パリサイ派、律法学者たちは民衆を支配し、行政、政治、宗教の面で彼らを支配しました。また彼らは郊外に大きな農場を所有し小麦、大麦、ブトウなどの農産物の市場を支配しここでも利益を搾取していました。2重の搾取です。

このような社会背景でイエス様のメッセージを考えますと弱者に対する愛に満ちているのです。

すべて疲れている人、重荷を負っている人はは私のところに来なさい。わたしはあなたを休ませてあげよう。また医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。多くの群衆を羊飼いのいない羊のようにあわれんだ。

社会からドロップアウトした民衆の味方でした。弱者の立場にたたれたのです。
 
現代は強者の論理でしか通用しません。弱い者はいらないのです。イエスさまの愛に満ち、優しさに満ちた福音はなおざりにされます。教会の中でさえ注意しないといつの間に強者の論理で教会の運営がなされ声の大きな人がおお威張りです。

教会でも弱い者は相手にしないのです。しかし、イエス様が神の子であることに固執することなく人間の姿になられて、この世にお生まれになったのはこの弱者に生きる者に希望と勇気を与えるためです。
 
みなさんのクリスマスはいかがですか。
祝福をお祈りしています。

佐々木 博