今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。(Ⅰコリント4:13)
わたしはこの言葉に圧倒されます。パウロの私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。パウロは宣教の初めから彼の苦労は並大抵のものではありませんでした。
しかし、キリストのために苦しみをも賜ったのです。(ピリピ1:29)
わたしたちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。艱難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、わたしたちは、私たちを愛して下さった方によって、これらすべての中にあっても圧倒的な勝利者になれるのです。(ロマ8:33,37)
パウロは勝利者でした。彼はキリストのあってあらゆる状況に対処できる知恵をいただいていたからです。その知恵とは私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。と言いうるキリストの奴隷を言い表しています。
この自覚は何処から出てくのでしょうか。いろいろ解説はできると思いますが、私は彼の伝道生活にからみ出された彼の体験だと思います。
パウロはキリストに捕えられて、キリストの奴隷の奴隷になりました。その奴隷になって彼は初めてあらゆるものからの自由を経験したのです。
パウロはキリストの奴隷が彼にとって限りなく喜びであり、彼の「生」そのであったのです。自らの存在をちり、かすと言いうることがが彼の圧倒的な勝利の秘訣でした。
私たちは何と偉いことでしょう。
祝福をお祈りしています。
佐々木 博
0 件のコメント:
コメントを投稿