2011年5月30日月曜日

今週の聖句

また祈る時には、偽善者たちのようになるな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。また異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らはことば数が多ければ、聞き入れられると思っている。マタイ6:5,7

私たちが祈る時に陥りやすい二つのことが教えられています。祈りのような、もっとも真実であるべきときにでも、私たちは人に見せるような、聞かせる様な祈りをするものです。この見栄の誘惑は私たちの一番弱いところです。見栄のためには何でもする。まして祈りにおいてと考えますが、私自身も祈る時、はたして真実であろうかと思います。さらに考えればイエス様から注意される程祈っているであろうかと思うのです。

また異邦人のようにくどくどと祈るなと言われています。熱心な人ほどこの傾向が強いようにおもいます。まるで呪術をかけるような祈りです。そこには真の神は存在しません。自分の信仰で勝利を勝ち取ろうとする祈りです。イエス様が奴隷のような存在で、自分の思いが遂げられると信じているのです。聖書の神はそのような神ではありません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願する先に、あなたがたの必要なものを知っておられるからです。私たちの願いが真実、神の願いであり、私たちの必要が真実神の備えたもうものなのかをよくよく吟味すべきです。ひとは自分事はよく知っているといいますがそうでしょうか。

むしろ隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。とイエス様は教えています。そうです、神様は私たちの偽善や、異邦人のような呪術的な世界からは隠れています。そして暗い部屋に入り、隠れた神に祈る時、私たちは真実な自分で祈ることが出来るのです。

祝福をお祈りしています。


幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254

礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
7月9日(2時から4時まで)
会費300円
課題図書 塩狩峠

2011年5月23日月曜日

今週の聖句

彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。ヨハネ8:9

この場面は律法学者とパリサイ人によって姦淫の現場でとらえられ、朝はやく、宮で民衆に教えておられた、イエス様の真ん中に連れらてきたところです。律法学者、パリサイ人はイエス様に訴えます。モーセの律法の中で、こういう女は石打ちにするように命じています。ところであなたは何と言われますか。

これはイエスをためし、訴える口実を得るためでありました。レビ記20:10他人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならないと書かれています。イエス様の時代も、姦通は普通にあったようです。この女は律法によれば、殺されなければなりません。しかし死刑の執行の権利は当時のユダヤには無かったのです。律法通りを命じればローマへの反逆になります。また、この女をあわれんで、律法の命じる死刑を停止すれば、ラビ、あるいは預言者として、民衆から信頼されていたイエスの面目は潰れます。

イエスは言いました。あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に石を投げなさい。それを聞くと年長者から始めて、ひとりひとり出て行き、イエス様と女が残されたのです。イエス様のこの一言が、状況を変えました。律法学者、パリサイ人と同じように、この女を囲んでみていた民衆もみな告発するものでした。しかし、イエス様の罪なき者、この一言で、自分の心を探った時、自分もこの女と同じ罪人だと気がついたのです。

民衆も、告発した律法学者、パリサイ人も去りました。誰も彼女を訴えるものがいなくなったのです。女もこの現場から早く逃げたいと思ったに違いありません。はずかしめと屈辱が女をとらえていました。しかし、女はそのままそこにいたのです。

自分の罪にとらえられて動けなくなっていたのです。私たちはイエスの前に出た時、自分の罪に気付かされます。そしてゆるしの言葉を聞くまで動けないのです。自分で自分の罪にとらえられているのです。イエス様は言いました。あなたを罪に定める者はなかったのですか。彼女は言った。だれもいません。そこでイエスは言われた。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。イエス様はこの女を罪から死から解放して下さったのです。

祝福をお祈りしています。


あなたの居場所の見つかる
幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
043-275-5254

礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
7月9日(2時から4時まで)
会費300円
課題図書 塩狩峠

2011年5月16日月曜日

7月9日千葉三浦綾子読書会開催のお知らせ

7月9日、千葉三浦綾子読書会を幕張本郷クリスチャンコミュニティで開催いたします。 

千葉三浦綾子読書会
7月9日(2時から4時まで)
会費300円
課題図書 塩狩峠

是非楽しみにお出で下さい。お待ちしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

今週の聖句

主イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上にわたしを愛しますか。」 ヨハネ21:15

イエス様が十字架にかかって、死んで三日目によみがえって、弟子たちに現われたのはこれが3度目でした。それもエルサレムではなく、ペテロの故郷ガリラヤ湖の湖畔でした。十字架に掛かってイエス様が死んだ後、3日目に弟子たちは復活の主に会い、弟子たちは喜びましたが、今なお不安と恐れの中にありました。そこでイエス様は信仰の原点である彼らの故郷、ガリラヤに戻るように言われたのです。信仰に迷った時、不安になった時、自分の救いの原点に戻るのは良いことです。もう一度素直に十分の信仰の有り様を見つめ直す時だからです。何故自分がイエス様を信じるようになったのか、よくよく考えるときです。

そのような時に、イエス様はシモン・ペテロにわたしを愛するかと問われたのです。復活の主に出会って彼らは喜びました。平安があなた方にあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがを遣わします、と宣教命令もうけました。しかし、彼らの信仰はまだまだ定まってはいなかったのです。

彼らは今一度自分の本心を見つめ直す必要があったのです。主はペテロにわたしを愛するかと問われました。この言葉はシンプルですが、ペテロの心の内面を見つめさせました。ゲッセネマでイエスを見捨てて逃げ散ったこと、ピラトの中庭でイエスを3度否定したこと。思いだしたくない出来事です。自分の最も厭な、隠しておきたい部分を彼は見つめなければならなかったのです。

彼のこうした行動の中に、ペテロの卑怯さ、自己防衛、愚かさ等の最も弱い部分が現われています。そこに気付かされて行く時、私達はイエスの赦しを聞くのです。それはわたしの子羊を飼いなさいというゆるしの声なのです。

あなたの居場所の見つかる教会
幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254

礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

次回千葉三浦綾子読書会
7月9日(2時から4時まで)
会費300円
課題図書 塩狩峠

2011年5月2日月曜日

今週の聖句

このように、労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、「受けるよりも与えるほうが幸いである。」と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。
使徒20:35

パウロのエペソ教会ヘの告別メッセージの個所です。パウロはエルサレムに行かなければなりませんでした。そこに待っているのは、私にどんな事が起こるか分からない、なわめと苦しみが待っている、私の顔をあなたがたは2度と見ることがない事を知っているほどの危険な場所、エルサレムにパウロは何故ゆくのでしょうか。

それはエルサレム教会を援助するためであり、異邦人教会とユダヤ人教会の交わりを実現させるためでした。教会はそれを建てあげるに人の一生をかけるほどのものです。教会の一致も交わりもいのちをかけるにたるほどに価値のあるものです。教会はキリスト御自身の血をもって買い取られた神の教会です。

この教会は御言葉にやしなわれ、御言葉は御国を継がせることのできる力があるのです。そして、受けるよりは与えるほうがさいわいであるという、イエス御自身の教えが実践されているところです。むしろ教会は御言葉に養われながら、ひとりひとりが受ける愛ではなく、与える愛を実践して行くところです。私たちが今ほど、このイエスの受けるより与えるほうが幸いであると言われた本当の意味、他者のために存在し他者を生かし、他者の益を測り、私はキリストのいのちに生かされているのです。

祝福をお祈りしています。

あなたの居場所の見つかる教会
幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254

礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
5月14日(2時から4時まで)
会費300円
課題図書 塩狩峠  講師 長谷川与志充先生(読書会代表)