2011年5月23日月曜日

今週の聖句

彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。ヨハネ8:9

この場面は律法学者とパリサイ人によって姦淫の現場でとらえられ、朝はやく、宮で民衆に教えておられた、イエス様の真ん中に連れらてきたところです。律法学者、パリサイ人はイエス様に訴えます。モーセの律法の中で、こういう女は石打ちにするように命じています。ところであなたは何と言われますか。

これはイエスをためし、訴える口実を得るためでありました。レビ記20:10他人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならないと書かれています。イエス様の時代も、姦通は普通にあったようです。この女は律法によれば、殺されなければなりません。しかし死刑の執行の権利は当時のユダヤには無かったのです。律法通りを命じればローマへの反逆になります。また、この女をあわれんで、律法の命じる死刑を停止すれば、ラビ、あるいは預言者として、民衆から信頼されていたイエスの面目は潰れます。

イエスは言いました。あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に石を投げなさい。それを聞くと年長者から始めて、ひとりひとり出て行き、イエス様と女が残されたのです。イエス様のこの一言が、状況を変えました。律法学者、パリサイ人と同じように、この女を囲んでみていた民衆もみな告発するものでした。しかし、イエス様の罪なき者、この一言で、自分の心を探った時、自分もこの女と同じ罪人だと気がついたのです。

民衆も、告発した律法学者、パリサイ人も去りました。誰も彼女を訴えるものがいなくなったのです。女もこの現場から早く逃げたいと思ったに違いありません。はずかしめと屈辱が女をとらえていました。しかし、女はそのままそこにいたのです。

自分の罪にとらえられて動けなくなっていたのです。私たちはイエスの前に出た時、自分の罪に気付かされます。そしてゆるしの言葉を聞くまで動けないのです。自分で自分の罪にとらえられているのです。イエス様は言いました。あなたを罪に定める者はなかったのですか。彼女は言った。だれもいません。そこでイエスは言われた。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。イエス様はこの女を罪から死から解放して下さったのです。

祝福をお祈りしています。


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