2010年1月26日火曜日

今週の聖句

私たちは機会のあるたびに、すべての人に対して善を行いましょう。(ガラテヤ6:10)

人生の不可思議。私はマンション住まいです。わずか48戸の小型マンションですがこのマンションに48通りの家族がすみ、毎日幸せにくらしています。ドア1枚で中の様子は全く分かりません。

しかし、一皮むくと、そこに夫婦喧嘩があり、親子のいさかい、兄弟げんか、離婚の危機、介護の必要な老人、受験生、病に伏せるもの、独員、借金という人生のすべてが存在していると思います。そして文字通り幸せな家族もいるのです。

外から見ると幸せに見え、内から見ると全く逆の風景が見えるものです。外からは中の様子、生活の状態など全くうかがいしれません。

私たち一人一人も同じです。あなたの心の中など誰が分かるでしょうか。夫婦といえども、恋人同士でも、親子でもそれぞれの思いを知ることは不可能なのです。

私達の思いは自分の思いがあふれ出て、行為となって現われた時に分かるのです。その人はその実によって分かるのです。

あなたがたは実によって彼らを見分けることが出来ます。(マタイ7:16)

私たちが毎日さりげなく行っている行為の中にあなたの信仰があり、品性があり、人格があるのです。それは隠すことできません。見えも良くすることはできません。

隠すことも、見えもあるがまま神様のまえに、罪許された者として歩むことが出来たらどんなに素晴らしいことでしょう。神様はすべてご存知であり、神様が共にいて下さるからです。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博

日曜礼拝  毎週日曜日 午後3時
水曜礼拝  毎週水曜日 午後1時30分

2010年1月20日水曜日

今週の聖句

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次の事です。キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと・・・
(Iコリント15:3)

私は今年の初めから大変厳しい人生を送っているご家族と、見事に主の証しの人生を全うした2家族の葬儀に立ち会いました。ご家族として初めて家族旅行し、旅行先で8ヶ月の胎児を死産した若いご夫婦です。またもう一人の方は71歳でしたが、パーキンソン病と闘い見事に良き証しを立てて、天国に召された兄弟です。

8ヶ月の胎児は女の子でした。1週間前に検診を受け、大丈夫といわれ、お正月の帰省旅行でした。朝には大きな喜びと期待に膨らんでの旅行でした。しかし、6時間の長旅に母子共に無理であったのでしょう。

このご家族は昨年の10月に3年間白血病と戦った7歳の女の子を失っているのです。なんとなんとこの傷が癒される前に、3月出産予定の女の子を失ったのです。言葉もありません。

71歳の兄弟は長老として神と教会に仕え、所属教会の基礎を築き、会堂建設に用いられ、それは見事なキリストの実を結んだ生涯でした。12年間パーキンソン病と闘ったのですからこの人生も厳しかったと思います。パーキンソン病は脳から出る神経伝達物資ドパミンの減少により、体の動きが出来なくなる病気です。年ごとに、月ごとに、日ごとに衰えを感じる毎日。当人でなければ分からない、悩みや苦しみ、悲しみ、それにご家族、しかしこうした人生の中にある希望と慰めは何だろう。

それは復活です。天国で再会できる、この見ゆる地上での生涯はどうであれ、クリスチャンの持っている希望は復活です。栄光の朽ちない体によみがえる信仰です。

キリストは私のためにも、あなたのためにも十字架にかかって下さいました。そしてあなたのために私のために栄光の体をもって復活されたのです。

祝福をお祈りしています。

ほっとして、勇気がでて、元気の出る
幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
043-275-5254
日曜礼拝 毎週日曜日午後3時
水曜礼拝 毎週水曜日午後1時30分

2010年1月11日月曜日

今週の聖句

イザヤ53章

私は良い男でもなく、良い女でもない。生き生きとしているわけでもなく、幸せな人生をスタートさせたわけではない。私は軽んじられ、人から疎んじられ、相手にされない。私から出てくるのは愚痴ばかりです。私は悲しみ、病んでいる。私は本当に軽んじられている。誰も私を理解し尊敬してくれない。私の人生は暗く空しい。希望もない。しかし、私の人生が同じ境遇の人たちの心の安らぎとなり、励ましとなることを私は知った。

私は苦しんだ。しかし、忍び耐えた。私は絶望した。が、神が共にいることを知った。私は誠実に生きていると思った。真実に生きた。しかし、神から遠かった。すべてが自分中心であった。

私が苦しむこと、悲しむこと、悩むこと、心弱くなること、いらだつこと、ひとりであること、迷いの中にあること、私の存在を悲しんだ。毎日が不安と恐れの中にあった。

しかし、思った。私は神に選ばれ、神の人生を生きていることを知った。

信仰生活の中で闇の中にあり、落ち込んでいる時、信仰と自分のはざまでもがいている時、イザヤ書53章は大きな慰めです。

パウロ書簡を読んでいますとパウロ自身がこんな経験を沢山したのだと感じています。

マケドニヤに着いた時、私たちの身には、少しの安らぎがなく、さまざまの苦しみがあって、外には戦いがあり、内には恐れがありました(Ⅱコリント7:5)。

私が弱い時にこそ、わたしは強いからです(Ⅱコリント12:10)。

わたしは、強くして下さる方によって、どんなことでも出来るのです(ピリピ4:13)。

皆さんの信仰生活は如何ですか。よくてもわるくても神は共にいて下さいます。

平安をお祈りしています。

ほっとして、勇気が出て、元気の出る
幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
千葉市花見川区幕張本郷3-5-30
JR幕張本郷駅徒歩8分
日曜礼拝 午後3時から
水曜礼拝 午後1時30分から

2010年1月5日火曜日

今週の聖句

ペテロはヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。(使徒の働き3:4)

毎日、宮に上り祈る人々から施しを求めるために、美しの門に運ばれてきた生まれつき足のきかない男に対するペテロとヨハネの態度です。

この足のきかない男は運ばれてきました。男は社会的、宗教的弱者でした。差別の対象です。社会から置き忘れされ、宗教的に神のさばきによって生まれながら身体に障害を持つ者とみなされてきました。まったく価値のない者と見られていたのです。

このような男に対して、ペテロとヨハネは私たちを見なさいと言ったのです。男の人格に声をかけたのです。聖書は、男は運ばれてきたと書いています。人は死ぬと物体になります。人は死ぬと運ばれるのです。

人は一緒に行きます。あるいは連れて行きますと言いますが、運ぶという言葉は使いません。この生まれながらの男は運ばれてきたのです。物として長いこと扱われてきた男にペテロとヨハネは目線をあて、私たちを見なさいと言ったのです。神の前に生きる人間として見たのです。

私たちは弱い立場の人にどれほどの優しを持っているだろうか。あるいはそうした存在に気が付いているだろうか。ペテロやヨハネのように私たちを見なさい、と相手の目に向かって、相手の必要に応えることが出来るだろうか。

そして、金銀は私にはない。しかしわたしにあるものものをあげよう。それは生きるすべての解決であるナザレのイエス・キリストを提示することです。男は声をかけられたときに、ペテロとヨハネを通して注ぎ込まれた信仰によって癒されていたのです。

どんなときにも、一人のかけがえのない者として接していく優しを欲しいと思います。

祝福と平安をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
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