2010年12月28日火曜日

今週の聖句

もし、あなたがたの互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたが私の弟子であることを、すべての人が認めるのです。ヨハネ13:35

神は愛なりです。愛はすべての根本です。しかし、愛を実践することは大変難しい事です。キリストの弟子になることは、イエスの愛を実行することだと言われます。愛を現わす、愛を示す、愛する、愛の形は陳腐ないい方ですが、様々です。愛を行うほうも、またその愛を受け取るほうもそれぞれだからです。人は自己中心だからです。キリストの十字架はその自己中心を砕いたのです。

聖書はお互いの間に愛があるならと書いています。お互いの間にです。わたしたちはお互いの間に愛を通わすことが大切です。それは相手の必要に応え、相手の存在を認め、赦し、受け入れて行くことです。しかし、難しいのは、人それぞれに人生、背負っているものがあります。その背負っているものを理解しませんと難しいと思います。その背負っているものまで理解することが、キリストの愛です。そこに本当のゆるしが成立します。

歳の暮れ、この1年を振り返る時、自分の背負っている重荷、友人、知人の背負っているものに思いをはせながら、神様の愛、イエス・キリストの十字架に思いを寄せたいと思います。

今年1年拙いw-vにお付き合いいただき心から感謝いたします。

新年の祝福をお祈りいたします。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
1月22日(2時から4時まで)
会費300円
課題図書 塩狩峠

2010年12月23日木曜日

今週の聖句

それから、夢でヘロデのところへ戻るなといという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。マタイ2:12

遠くバビロンあるいはアッシリヤの国からでしょうか。東方の博士たちがはるばるエルサレムまで、ユダヤ人の王としてお生まれになったイエス様を拝みに来たというのです。

当時の旅は今と違っていのちがけです。遠くバビロンからですと4200キロぐらいはあるでしょうか。現在のように車、電車、飛行機と交通手段があるわけではありません。道路も、治安も整備され、守られているわけではありません。野獣に襲われ、強盗に会う危険もありました。昼暑く、夜は凍るような気温の中での長旅です。

まさに命をかけて、ただ一つの星を見て救い主のご降誕を信じたのです。彼らはユダ人ではありません。多分ユダヤ人の捕囚民から旧約の預言を聞いていたのだと思います。単なるユダヤ人の王としてお生まれになったと信じたわけでありません。なぜなら、彼らはエルサレムに来て、王の誕生地を聞いているからです。王はエルサレムにいるのです。彼らは教えられてベツレヘムに行きます。

ベツレヘムにいるイエスの家に入って幼子を拝したと書かれています。貧しい、小さな家であったと思われます。しかし、彼らはその家に入って幼子を礼拝したのです。何とシンプルで素直な信仰でしょう。金殿玉楼に住み、多くの家臣たちに仕えられている幼子ではないのです。彼らの信仰の確かなことが伺えます。そして、礼拝した後、博士たちはもと来た道に戻らなかったのです。

イエスを礼拝したものは、再び過去の自分に戻ることはないのです。新しい人生へと旅立つのです。そのイエス様がお生まれになったお祝いがクリスマスです。ADキリストがお生まれになってから2010年目のクリスマスです。

本当にクリスマスおめでとうございます。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
1月22日(2時から4時まで)
会費300円
課題図書 「塩狩峠」

2010年12月13日月曜日

1月22日(土)千葉三浦綾子読書会開催のお知らせ

1月22日(土)千葉三浦綾子読書会開催のお知らせ

1月22日午後2時から4時まで、千葉三浦綾子読書会を幕張本郷クリスチャンコミュニティで開催いたします。 

千葉三浦綾子読書会
1月22日(土)午後2時~4時
参加費  300円

※緊急のお知らせ
課題図書は「塩狩峠」でしたが、道ありきの原型となる三浦綾子さんの講演CDが手に入りました。「生きるということ」1968年名古屋聖文社創立10周年の記念講演です。生前の三浦綾子さんの肉声を聞くことが出来ます。お楽しみに。

是非ご参加ください。連絡佐々木まで。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

今週の聖句

ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。ルカ2:6,7

来週19日はほとんどの教会がクリスマス礼拝を行うのではないでしょうか。私たちもそうです。全人類を救うためにお生まれになったイエス様のお誕生をお祝いするのは当然です。

王の王たる方、世界を支配し、宇宙をも支配なさるお方がお生まれになったのです。どんなにお祝いしても、どんなに喜んでも、はしゃいでもゆるされる日ではないでしょうか。主の契約の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町にはこび上った時、ダビデ王が飛び跳ねて喜びおどったと歴代誌は記しています。これくらいクリスマスにはじけたら良いですね。

そのお方が、その威光と尊厳と栄誉をすべて捨ててお生まれになった。宿屋には彼らのいる場所がなかったからであると記されています。イエス様の人生はすべてをすてることから始まりました。宇宙をも手に入れることのできるお方が、ご自分の生まれる場所さえ得ることが出来なかったのです。聖書の教える救いは不思議ですね。

私たちはすべてを得ようと生まれてきます。しかし、イエス様は違います。すべてを捨てたのです。救いは自分を捨てる所から始まります。自己愛です。自己中心です。わたしたちが、そのことに気がつくために、イエス様はあえて貧しくお生まれになったのです。罪を自覚することは、自分が貧しくなることです。

良きクリスマスをお迎え下さい。この1週間クリスマスの祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254

礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
1月22日(2時から4時まで)
会費300円
課題図書 塩狩峠

2010年12月6日月曜日

今週の聖句

私は主を待つ。ヤコブの家からみ顔を隠しておられる方を
私は、この方に望みをかける。イザヤ8:17

厳しい世相が続きます。クリスチャンといえども、この大きな流れからは逃れることはできません。リストラ、夫婦の関係、親子の問題、対人関係と経済格差、問題は次々と起こります。

今の時代は、こうした問題が予測なしに起こってくる恐ろしさがあります。それがまた社会不安を引き起こし、問題が次々におこるのです。あつい、フライパンの上で生活しているような感じがします。信仰生活の中で、主に見捨てられ、神を遠く感じられ、人生に望みのないときでも。

こうした状況の中で、何が求められているでしょうか。主を待つことです。忍耐が要求されています。どのような事態であっても、解決は主から来る。主の臨在を感じることが出来ず、主から遠く離れて、見捨てられているような信仰生活のただ中にあっても、私はこの方に望みをおく。それが信仰です。

平安をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
043-275-5254

礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

12月19日クリスマス礼拝
午後3時より礼拝、祝会「塩狩峠」上映予定

2010年11月29日月曜日

今週の聖句

アダム、セツ、エノシュ、ケナン、マハラエル、エレデ、エノク、メトシュラ、レメクⅠ歴代誌1:1、2

今週からアドヴェントに入りました。新約聖書の最初がイエス・キリストの系図から始まりますが、イエス・キリストの系図は1章で終わりますが、歴代誌の系図は1章では終わりません。9章まで続くのです。延々と続きます。イエス・キリストの系図は沢山の興味深い内容、教訓を含んでいます。

歴代誌の系図も同じように私たちに多くの教訓を教えています。歴代誌の書かれた目的は、イスラエル、ユダの民が捕囚から帰ってきた後に書かれましたが、エズラ記にみる神殿再建もとうに過ぎ、イスラエルの輝かしい共同体に繁栄は訪れなかった。民心はあれ、信仰もないかのような、そのようなときに、この歴代誌は書かれました。

この書の目的はそうした状況の中で、イスラエルの民が真の礼拝の民として再建され真の共同体を作り上げることでした。アダムに始まってカイン、アベルではなくセツであります。ここにこの書の意図が的確に書かれています。礼拝の民としての系図だからです。

私たちも現在救いに与り、礼拝を守る者として考えるなら、私たちもこの系図の末端に連なっているのです。今は無縁社会と言われていますが、クリスチャンたちも同じように、小さな群れの中で孤立し、弱い立場にに立っている方が多いのではないでしょうか。

しかし考えてみて下さい。私たちは真の霊的教会の共同体の一員です。そしてローカルチャーチ、あなたの所属している教会の教会員です。つまり、私たちは二つの教会の教会員なのです。真の霊的教会に召され、現実の教会の教会員なのです。

ヘブル記者はこういうわけで、多くの証人たちが雲のように、私たちを取り巻いているのですからと書いています。それはアブラハムから始まって信仰によって勝利した人たちの名前が書かれています。実は私たちは壮大な、真の霊的な教会の一員なのです。こう理解しますと信仰が豊かになりませんか。この殺伐とした時代の中で。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
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礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

2010年11月22日月曜日

今週の聖句

あなたがたは自由人として、行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。Ⅰペテロ2:16

私たちはキリスト・イエスにあって、キリストと共に罪に対して死にました。罪に対して自由にされたのです。私たちは罪の奴隷から解放されたのです。内をしても赦され、キリストの恵に生かされているのです。

ここに恵みの落とし穴があります。なにをしても赦され、過去の罪も、現在の罪も、また将来の犯す罪さえも赦されるほどの恵なのです。

わたしたちは、この恵の豊かさに圧倒されて、悪の増すところ、恵も増すなら、悪を行おうではないかと考えてしまうほどです。

しかし、真実キリストの恵みを知った者は、むしろキリストの奴隷として生きることに、真の自由がある事に気がつきます。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
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礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

2010年11月8日月曜日

今週の聖句

このように主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。Ⅱサムエル8:14

サムエル記8章はダビデの勝利の記録です。ダビデはぺリシテ人を打ち、モアブを打ちアラムを打ち、そして塩の谷でエドム人1万8千人を打ち殺して、帰って来た時、彼は名を上げた。まさに連戦連勝向かうところ敵なしです。彼の名声は確立したのです。

ダビデの戦上手は定評があります。ゴリアテに勝利して、帰って来た時、女たちはイスラエルのすべての町々から出てきて、笑いながら、くり返しこう歌った。
サウルは千を打ち、ダビデは万をうった。Ⅰサムエル18:7

しかし、聖書はダビデの勝利は主から与えられたものだと記します。私たちはそれぞれ色々なたまものがあたえられています。そして与えられた人生を歩むようにと召されているのです。神様は私たちを用いて、ご自身の栄光を現わそうとしています。

イスラエルを確立し、その子ソロモンに王位を継承させた偉大なダビデ王さえも、勝利は主から与えられたものなのです。人生の先々で、私たちを祝福しようとしておられる、主を信じて、この厳しい現実を歩んでゆきたいと願っています。

祝福と平安をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
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礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

2010年11月2日火曜日

今週の聖句

また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、自分自身で持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目をとめられた。創世記4:4

アダムとエバの間に二人の兄弟があたえられました。兄は地を耕すものとなり、弟は羊を飼う者となりました。地上には4人が住んでいました。のどかな牧歌的な風景が思い描かれます。ある時期、作物の収穫の時、羊が子を産む時期にそれぞれ神への捧げものを致しました。ここにはわずか8行ほどの短い記事の中に、二人の神への礼拝の態度の違いが鮮やかに描かれています。

カインは捧げものをするのに、十分な吟味もせず、収穫した多くの物の中から適当に選んで捧げました。弟アベルはどうでしょう。数ある羊の中から、それも初子を選んで、最良のものを選び、自分自身で持ってきたと書かれています。二人とも自分自身でもって来たのですが、弟のアベルにはこの表現が書かれています。二人の心のありようの違いが、端的に鮮やかに示されています。

どちらが真実に、そして誠実に神に捧げものをしたでしょうか。これは私たちの礼拝に対する教えです。神の御前に、私たちは自分の体を神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として捧げなさいとパウロは勧めています。

毎週の礼拝に私たちはどのような準備、配慮、努力をして臨んでいますか。神様に自分自身を捧げる時、礼拝する時アベルのようでありたいと願います。

このところ寒さが続きます。体調にご注意ください。平安をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時より
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
11月7日 礼拝 午前11時~12時
11月7日 午後2時30分から 三浦綾子文学セミナー
「したきりすずめのクリスマス」
講師 森下辰衛先生 元福岡女学院大学文学部助教授、
三浦綾子記念文学館特別研究委員
三浦綾子読書会顧問

2010年10月25日月曜日

今週の聖句

福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いた御言葉も、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって結びつけられなかったからです。ヘブル書4:2

イスラエルが荒野で40年間さまよったのは、彼らの不信仰の為だとヘブル記者は言います。神の導きを信じながら、彼等の不信仰でいくつかの事件を起こしました。それゆえに約束の地に入ることが出来なかったのです。それは、神の約束を信仰をもって受け入れなかったということです。

私たちも、この不信仰なイスラエル人と同じに御言葉を聞いてます。御言葉を聞いて、それが益となるのかは、信仰によって御言葉と生き方が結びつかなければならないということです。信仰生活と実人生が乖離しているのは信仰に生きていないということです。

私たちも信仰生活を送りながら同じ誤りを犯してはいないでしょうか。熱心に礼拝を守り、信仰を口にし、それなりの奉仕をしながら私たちは、御言葉が益となるような、いいかえれば、御言葉がその人の行動を支配し、御ことばに導かれ、御言葉を信じ体現するような人生をおくっているだろうか。

御言葉が益となる、御言葉に生かされる人生。キリストの実を結ぶ生き方を私はしたいと思います。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
11月7日 礼拝午前11時より
講演 午後2時30分 「舌切雀のクリスマス」
講師 森下辰衛先生 元福岡女学院大学助教授、三浦綾子読書会顧問

2010年10月19日火曜日

今週の聖句

ノアは正しい人であって、その時代にあっても全ったき人であった。ノアは神と共に歩んだ。創世記6:9

ノアの時代は神の前に堕落し、地は暴虐に満ちていました。新約聖書では神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。ノアの時代はbc4000年ごろです。イエス様の時代は2000年前です。同じように人は神の前に堕落していました。現代はどうでしょうか。まったく同じではないでしょうか。むしろ、わたしたちは神の前に罪を重ねています。悪くなっているのです。それは毎日の新聞、テレビニュースの報道のとおりです。

そうした中でノアは神の前に正しい人であり、かつその時代にあっても全ったき人でありました。聖書は面白い事を書きます。その時代と書いています。その時代とは、神を神として敬うことない時代です。

人々は神の前に堕落し、快楽を追い求めていました。そして暴力がはびこり、人々はすさんだ生活をしていました。現代もまったく同じではないでしょうか。

そうした中でノアはただ一人神の前に正しく歩んだ人でした。正しくとは、罪を犯さないということではありません。ノアも罪人です。

神の前に誠実に真実に歩んだということです。世の流れに抗して生きたということです。そして、全ったき人でした。

自分の弱さ、愚かさを充分に理解した人でした。全ったき人とは、神に降参した人のことです。犬や猫が無条件に自分をさらけ出すのは、自分のおなかを見せることです。自分の飼い主に甘えて、自分の最も無防備な姿を見せることです。お腹は最も弱いところです。なにも防御するものがありません。ガブっと噛まれたらおしまいです。

ノアは自分の弱さ、愚かさを神の前にさらけだすことのできた人です。自分を等身大で理解できた人物です。私たちも、神の前に飾ることなく等身大で生きられたら、神に喜ばれるのです。神と共に歩むことが出来るのです。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
11月7日(礼拝午前11より、セミナー2時30分から4時まで)
講師:森下辰衛先生
課題図書 舌切雀のクリスマス

2010年10月11日月曜日

今週の聖句

神の賜物と召命とは変わることがありません。ロマ11:29

これはイスラエルの救いに関して書かれている個所ですが、私は最近このように理解をしています。私たちは、神に愛され、私たちの目的も存在もキリストによるのです。キリストに生きるようにと救われたのです。そしてわたしたち、一人一人は高価で尊い存在として神に愛され、かけがいのないオリジナルなる作品として造られ、うまれてきました。

神様から与えられた両親、家族、教育、性格、顔貌(かたち)、性別、国籍、そして能力。これらはすべて生まれながらにして、私たちは、私たちの選択の余地のないものとしてあてられました。これらは、賜物としてあてられたのです。ですから私たちは、自分の今ある状況を感謝して受け入れるのです。なぜなら神から備えて与えられたからです。

また召命とは生き方です。私たちの現在までの生き方を考えます時、問題にぶつかった時、自分は常に最善の選択をしてきたのです。すべての事柄に最善の選択をしてきたのです。しまった、失敗したと思ったこともあるでしょう、また間違いを犯したと考えたこともあるでしょう。しかし、あなたはそのような生き方しかできない存在でもあるのです。

自分を静かに振り返ってみる時、それが神の恵みの世界であることに気がつきます。あなたはかけがいのない自分の人生を歩んでいるのです。

あなたの人生に祝福を祈ります。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
11月7日 礼拝11時から、午後2時30分から三浦綾子文学セミナー 
「したきりすずめのクリスマス」 講師森下辰衛先生(元福岡女学院大学助教授)
席上献金あり

2010年10月4日月曜日

今週の聖句

というのは、すべてのことが神から発し、神によってなり、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。ロマ11:38

上は天にある太陽、眼に見えない微生物に至るまで、すべては神によって作られているのです。そして栄光は神にあるのです。私たちは神の栄光を現わす存在として造られたのです。栄光とは神が神ご自身であると言うことです。神の持っている本質であり、力の現れであり、神の素晴らしさの表現です。

そして神の栄光はキリストによって現わされました。私たちはキリストをとおして神を見たのです。

神は人となって私たちの間に住まわれた。わたしたちは、この方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵とまことに満ちておられた。ヨハネ1:14

私たちは、この神によって救われ、今生かされています。

毎日の生活の中でこのイエスを現わすことが、私たちクリスチャンの生活なのです。難しい事はなにもありません。与えられた人生をしっかりと生きることです。神を神とする行為は礼拝において現わされます。ですから礼拝をしっかりと守ることが第一です。

つぎに与えられた賜物を生かして人生を生きることです。賜物には沢山の現われがあります。あなたの性質もその一つでしょう。顔形もそうです。あなたの望みではないかもしれません。しかし、神が私たち一人一人に最善を尽くして造って下さったオリジナルな神の作品です。また才能もそうです。これを充分に生かす知恵を求めて行きましょう。そしてイエス様の素晴らしさをあかしする生活を送ることです。

今日の天気は肌寒さを感じます。なんとなく落ち込む日です。祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
11月7日(午前11時礼拝、午後2時30分セミナー)
「舌切雀のクリスマス」講師:森下辰衛先生
席上献金あり

2010年9月27日月曜日

今週の聖句

私は、40年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたが身に着けている着物はすり切れず、その足の靴もすり切れなかった。申命記29:5

私はイスラエルの40年の生活はどんなであったろうと思います。同じ民が40年間荒野を旅し、生活を共にする。移動生活ですから、毎回家族と家財一式をもって、次の宿営地まで旅をする。それもテントでの世界です。

ですから十戒の殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲しがってはならない。

これは、私たちが考える以上に彼らの生活の中に日常的に起きていた出来事のように感じます。だから、この戒めが大きな意味をもっていたのです。彼らの日常がこのような事件に満ちていたのです。

お互い生活が丸見えで、隠しようがなったのでしょう。生活は厳しく、常に生活に追われていたことでしょう。ただ主によって養われていました。

あなたたが着ている着物も、足の靴もすり切れなかった事実が、そのことを教えています。しかし、主は今日に至るまで、あなた方に悟る心と、見る目と、聞く耳を下さらなかった。申命記29:4私たちは目が曇っていますと、目の前の祝福を祝福と感じなくなります。

荒野生活と今の私たちの生活と本質的には同じです。私達は主に養われて生活をしているのです。何一つ私たちの持ち物はないのです。裸で生まれ、裸で死んでゆくのです。私たちのその人生を支えてくださっているのは、荒野でイスラエルを養った同じ主です。

ただ悟る心と、見る目と、聞く耳を、主から与えていただき、この厳しい現実の中で働く主の恵の世界を味わいたいと思います。あなたの生活、着物も靴もすり切れていないことに気がつくことでしょう。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ 第二回三浦綾子文学セミナー
11月7日(日) 第一部 礼拝午前11時~12時
第二部 講演午後2時30分~4時
「舌切雀のクリスマス」
講師 三浦綾子記念文学館特別研究員
森下辰衛先生

2010年9月20日月曜日

11月7日(日)千葉三浦綾子読書会開催のお知らせ

11月7日(日)午前11時から12時までと午後2時半から4時まで、千葉三浦綾子読書会を幕張本郷クリスチャンコミュニティで開催いたします。 

期日 11月7日(日)午前11時から12時までと午後2時半から4時まで
場所 幕張本郷クリスチャンコミュニティ
三浦綾子文学セミナー第二回
講師 森下辰衛先生 三浦綾子記念文学館特別研究員
席上献金あり

是非ご参加ください。連絡佐々木まで。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
日曜礼拝 日曜午後3時~
水曜集会 水曜午後1:30分~

今週の聖句

あなたがたには、明日のことは分からないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。ヤコブ4:14

聖書の人生に対する見方の一つです。しかし私たちはこの世では、旅人であり寄留者であるとも書かれています。この人生をどう考えて生きて行くかが問われます。その考え方があなたの人生です。人生は勝負だと考えれば、勝ち負けにこだわる生き方になり、人生は楽しむためにあると考えたなら、快楽主義になります。人生は長く、苦しみのみと考えるなら忍耐が要求されます。

あなたの価値感が人生の生き方なのです。しかし、聖書は私たちが味わうあらゆる試練、苦難、誘惑といった類のものは、私たちの人生のスパイスのようなものだと教えています。スパイスは少し厳しい言い方かもしれません。多く方が苦しんでいるのですから。しかし、私たちは多くの試練を通して、キリストの恵を経験しているのです。むしろ、試練、苦難なくしてキリストの恵みの世界を味わうことはないと思います。また。こうした事柄を通してわたしたちは、キリストに近づき、少しでもキリストに似たものとされてゆくのです。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。Ⅱコリント15:10

パウロの告白です。人は誰でもひそかにこのように思うことはありませんか。今日あるのはただ恵です。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
11月7日(朝11時12時まで、午後2時30分から4時まで)
三浦綾子文学セミナー第二回
講師森下辰衛先生 三浦綾子記念文学館特別研究員
席上献金あり

2010年9月15日水曜日

今週の聖句

「国と力と栄は、とこしえにあなたのものです。」マタイ6:13

聖書の脚注には、最古の写本ではこの句は欠けている。と書かれています。ですからイエス様の教えられた時には無かったものです。しかし、いつの間にか初代教会の礼拝で主の祈りをする時、自然にこの頌栄が加わったのでしょう。それが福音書本文に加えられました。

しかし、聖書自体がこのことを主張しています。神殿建築にあたって、ダビデがイスラエルの全集団に祈った言葉に現われています。

主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳はあなたのものです。天にあるもの、地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。Ⅰ歴代誌29:11

私たちの人生に深く、生まれる以前から関わって下さった神さまをこのように理解しその御名が崇められることを求め、栄光を神様にお返しをするのが祈りの本質です。このような祈りこそ、応えられる祈りではないでしょうか。祈りこそ、私達の信仰、神理解が試されることはないと思います。私たちは自分が理解している神に、信仰をもって祈っているのです。

皆様の健康をお祈りしています。暑い8月を乗り切り、朝晩は秋の気配を感じます。こんな時こそ、要注意、信仰が新たにされますように。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
11月7日(午後3時から)
スペシャルゲスト森下辰衛先生(三浦綾子記念文学館特別研究員お楽しみに)

2010年9月6日月曜日

今週の聖句

わたしたちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

日用の必要のために祈り、罪のゆるしを求める祈りをしてきました。神に信頼し、十字架の赦しを信じて祈ってきたのです。しかし、私たちの1日の初めはこの試みに会わせないで、悪からお救いくださいの祈りが大事です。

毎日試みに会うことなく、罪を犯すことなく過ごせたらどんなに平安かと思います。私などは多少の試みは人生の薬味で、もし全くなかったらつまらない人生になってしまうと思いますが。これは私の年齢が言わせる言葉です。

聖書も試練を喜びなさいと教えています。ヤコブの手紙には、私の兄弟たち、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じることを、あなたがたは知っているからです。(ヤコブ1:2,3)信仰の成長には試練が必要だと教えているのです。

キリスト信仰の面白いところは、この試練、艱難の反対側に限りない神に恵みの世界が備えられているのです。この恵を理解するために、わたしたちは、毎日24時間様々な試みにあっているのです。

ではこの祈りの意味はなんでしょうか。信仰の成長に必要な試みではなく、悪から救われる祈りなのです。私たちは人生の中で信仰がふるわれ、失うようなるようなことに出会うことがあります。あのペテロでさえ、サタンの誘惑に会い、信仰がなくなるようなことがありました。その時、イエス様はこう言われました。

わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。(ルカ22:32)

つまりこの祈りは、私たちを悪の誘惑に導き、ついには信仰の破たんに至らせるような試みから救って下さいという祈りです。

デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロケに行ってしまったのです。(Ⅱテモテ3:19)興味深い事実が記されています。

今年の気温は異常です。皆さまご自愛ください。充分お水を飲んで健康に注意しましょう。

お祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
9月11日(2時から4時まで)
会費300円
課題図書 塩狩峠
講師  佐々木 博先生

2010年8月30日月曜日

今週の聖句

私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者を赦しました。(マタイ6:17)

マタイの福音書では私たちの負い目となっています。罪と言わず負い目です。聖書には罪と訳されている言葉がいくつかあります。マタイは私たちは神に対して負い目のある存在だと書いているわけです。罪と書かれると、すぐに十戒を思い、私たちは本当に罪な存在だと思います。

しかし負い目を言われますと、神の前にどれほどの負い目、借金があるのだろうかと考えてしまいます。借金は返済しなければなりません。それも利息を付けて返済すべきものなのです。私は国税を滞納した経験がありますが、その取り立ての厳しいこと、延滞に対する利息の高いことに驚いたことがあります。最後の1円まで支払わなければならないのです。私たちの犯す罪はまさに、この負い目と同じ性質を持っているのです。

毎日私たちは罪を犯す存在です。どんなに聖められても罪を犯してしまいます。そのひとつひとつが神に対する罪、負い目なのです。それは支払うべきものです。しかし、私たちの罪は余りも大き過ぎて支払うことができません。そして必ず清算する日が来るのです。

パウロは、おのおの自分のことを神の前に申し開きをすることになります(ロマ14:12)と書いています。私たちの神に対する負債額はいかほどの金額でしょうか。マタイ18章では王様としもべとの間でしもべの借金を清算するお話があります。1万タラントを王様から借りていたしもべの話です。1タラントは6000デナリに相当します。1デナリは1日の日当です、そうしますと6千万日の借金を負うていたことになります。払いきれない、私たちの生きている間、どんなに償っても償いきれない負債を王様に負っていました。彼は王様に赦しをこいました。何と王様は哀れに思ってにその負債を赦してくださったのです。神様の赦しは無限です。イエス様の十字架は完全に私たちの罪、負い目を支払って下さったのです。しかし、この世の生活をするうえで罪をおかすことなく生活することはできません。私たちは肉の体をまとって生きているからです。

そこでこの祈りが必要なのです。マタイ18章のたとえに、このゆるされたしもべが今度は自分のお金を貸したしもべから厳しく取り立てる話が書かれています。そのかした金額は自分の赦されあ金額にくらぶれば取るに足らないものでした。人間存在の面白さ、小ささ、自分の赦されたことは忘れても、人にされた罪、貸したお金は忘れないものです。どんな小さな金額さえもゆるさない。人間の本質がここにあります。ですから毎日、今日のこの祈りが大切なのです。

今日はすこし長く書きました。自分の罪ゆるさらた事はすぐに忘れて、人の罪を責め立てるのが私たちです。人に対する罪を7度を70倍するほどの寛容さが欲求されますが、そのことできない自分に気付かされ、赦された事に感謝することが求められています。

今日1日平安でありますように

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254

礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
9月11日(土)(2時から4時まで)
会費300円
課題図書 塩狩峠

2010年8月20日金曜日

今週の聖句

御国が来ますように(マタイ6:10)

この祈りをどう理解していますか。ほとんど期待もせず、実現はおろかあるいは、その存在さえも疑っているのではないでしょうか。しかし、御国は存在し、1日も早くその国が実現することを願うのがクリスチャンです。御国とは神の支配する国のことです。神様は王です。

神様はこの御国実現の御計画を持っており、まだその途上ですが、やがて最終的には実現するのです。イエスは宣教の初めに「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」と言われ
ました。福音はこの神の国に入ることなのです。

御国は外的にはこのよが神に支配され、神のみこころが行われることを願うものです。神のご支配が量的に拡大され、ついにはすべてに神のご支配が行われることです。内的には私たちの心が神様のご支配にどれだけ服しているかが問われます。そらここにある、あそこにあるというものではなく、イエスは神の国はあなたの心のただなかにあると言われました。

何と慰めに満ちた言葉でしょう。私たちの人生を神のご支配の中に置きなさい。そこに、御国が実現しているのです。難しい事ではなく、神様によって新しい心が与えられ、神様との一緒の生活が御国なのです。御国の王はイエス様です。

しかし、この御国は見えません。気がつきません。私たちの信仰の目が曇っているからです。神は心のこざかしい者を決して顧みない。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
043-275-5254

礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉9月11日(2時から4時まで)
会費300円
課題図書 塩狩峠

2010年8月9日月曜日

第4回千葉三浦弥子読書会のお知らせ

9月11日(土)午後2時から4時まで、第4回千葉三浦弥子読書会を幕張本郷クリスチャンコミュニティで開催いたします。 

期日 9月11日(土) 午後2時~4時
場所 幕張本郷クリスチャンコミュニティ
会費300円
課題図書 塩狩峠

是非ご参加ください。連絡佐々木まで。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
日曜礼拝 日曜午後3時~
水曜集会 水曜午後1:30分~

今週の聖句

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように
地でも行われますように。(マタイ6:9~10)

私たちの礼拝では、前半の部分で使徒信条を告白し、後半で主の祈りを祈ります。祈りの中身も十分に吟味もせず、ただプログラムにあるので祈っているそんな感じです。しかし、主の教えたまいし、主の祈りがそれほど形骸化された内容とは思えません。少し学んで見たいと思います。

父よと呼びかけた後に、第一に御名があがめられれますようにと祈ります。神の御名が崇められることが第一です。私たちがの生活の中で、何をあかしするのでしょうか。御名が崇められることです。神の存在がその存在にふさわしく、取り扱われ、礼拝され、賛美されることを祈るのです。昔も今も、御名が汚され、軽んじられています。名前にふさわしく、理解し祈ることは私たちの生活がその御名にふさわしく生きることを意味しています。

神の御名があがめられますように。神が神にふさわしく、その御名が崇められる時、私たちの生活もその祈りによって聖められその名にふさわしく整えられて行くのです。クリスチャンの生活が、何によって左右されてゆくのか、言葉です。自分の発する言葉、その意味を理解してゆく時、私たちの生活は御名にふさわしく変えられてゆきます。

祝福が豊かでありますように。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
     佐々木 博 
    043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
9月11日(2時から4時まで)
会費300円
課題図書 塩狩峠

2010年8月4日水曜日

今週の聖句

天にいまします私たちの父よ。御名が崇められますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。(マタイ6:9~10)

私たちはお祈りをする時、どのようなイメージで信じる神様に祈っていますでしょうか。イエス様の教えは祈りの対象は「父よ」でした。

旧約ではご自身を全能の神としてアブラハムに現わされました。またモーセに対しては「わたしはあるという方がわたしをあなた方のところに遣わされました。」こうした旧約に啓示された神様に対して、イエス様は父とよびかけることを教えました。新約の大きな神啓示の転換です。全知全能にして、万物を造り、不可能を可能にしたもうお方、またご自分、自ら存在し、すべて存在するものを存在させるお方として啓示されてきました。

遠く離れ、威光と尊厳と栄誉に満ちたお方です。そのような神様に、父よと呼びかけることを教えて下さいました。まったく新しい神概念です。神の独り子なるキリストによってのみ可能な呼びかけです。わたしたちが再び恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、子として下さる御霊を受けたのです。

父なる神さまは、あなた方がお願いする先に、あなた方の必要を知っておられるのです(マタイ6:8)。そのお方がわたしたちに祈りを教えてくださったのです。

祝福が豊かにありますように。健康が守られますようにお祈りしています。


幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
8月7日(午後4時から7時まで)
会費300円(カレーライス付き)
課題図書 氷点
映画上映 1966年 監督:山本薩夫 出演:若尾文子 船越英二 安田道代

2010年7月19日月曜日

第3回千葉三浦弥子読書会のお知らせ

8月7日(土)、第3回千葉三浦弥子読書会を午後4時から7時まで、幕張本郷クリスチャンコミュニティで開催いたします。 

期日 8月7日(土) 午後4時~7時
場所 幕張本郷クリスチャンコミュニティ
会費300円
映画 氷点 を上映予定
若尾文子、船越栄一主演 作品はモノクロ
夏の暑い夕方、昔の小学校での映画会を思い出しませんか。
タイムススリップしませんか。

是非ご参加ください。連絡佐々木まで。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
日曜礼拝 日曜午後3時~
水曜集会 水曜午後1:30分~

今週の聖句

天の父いますわたしたちの父よ。(マタイ6:9)

主の祈りの呼びかけの言葉です。新約で祈りの対象は父と表現されるようになりました。

あぁ天の神、主。おおいなる恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては契約を守り、いつくしみを賜る方。(エレミヤ1:5)

これが旧約の祈りです、全能の神としてあらわれ、ありてある者と言われるお方が、父とよばれるようになりました。大きな啓示の転換です。新しい救いの契約、イエス・キリストに入れられたのです。

信仰の対象が父と子の関係になりました。その父は、あなた方がお願いする先に、あなた方の必要を知っておられるお方です。祝しようとされているお方です。イエスさまは主の祈りを教える前に大切な誤り、ほどこし、いのり、断食について、厳しい注意を与えています。

この3つは当時の宗教的義務でしたが、施しも、祈りも、断食さえも人の目を気にして行っていた偽善を鋭く注意しています。宗教的偽善、これこそ、私たち信仰生活にひそかにはいる危険な罠です。

自分の神を神としながら、救われた、自分の父に対するようにと教えられたのが主の祈りです。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
8月7日(4時~7時まで)
会費300円
映画 氷点 を上映予定
若尾文子、船越栄一主演 作品はモノクロ
夏の暑い夕方、昔の小学校での映画会を思い出しませんか。
タイムススリップしませんか。

2010年7月12日月曜日

今週の聖句

最後に、兄弟たち、すべて真実なこと、すべての誉あること、すべての正しい事すべての清い事、すべての愛すべきことすべての評判の良い事、その他徳といわれること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(ピリピ4:8)

パウロの実生活における注意です。私たちの日常生活で追い求める項目を具体的に指摘しています。クリスチャンが毎日生活する中でどんなものに関心を持ち、注意をはらい、意識して生活しなければならないかを教えています。

しかし、私たちの関心はむしろ自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神を汚すもの、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れたものになり、情け知らずのもの、粗暴な者、向こうみずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見ゆるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を裂けなさい。(テモテ3:2~5)

信仰生活における陥る危険な罠を指摘しています。世の中は面白いもので、多少さばけたところがあり、行動も粗暴さのある者、向う見ずな人が男気あることになり、神よりも快楽を愛する人が意外ともてはやされてしまいます。

私たちがじつはひそかに望んでいる、罪への誘惑です。むしろクリスチャンはこの誘惑をきちんと理解をしていないと、見ゆるところ敬虔であっても、その実を否定する者になるのです。

世の中敬虔に生きる事がつらい時代になっています。互いのためにいのりなさい。癒されるためです。(ヤコブ5:16)

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
米田浩司ヒーリングコンサート
7月16日金 (2時~4時まで) 参加費無料
鬱から立ち直って、自らの弱さの中に
福音による再生を経験した米田ワ―ルド
ご一緒に楽しみたいと思います。

千葉三浦綾子読書会
7月17日土(2時から4時まで)
会費300円 課題図書 氷点 下

2010年7月5日月曜日

今週の聖句

福音にふさわしい生活をしなさい。(ピリピ1:27)

私たちの生活の仕方がどのようなものであるか、それは福音にふさわしく生活をすることです。ピリピは当時ローマの植民地でした。彼らの生活様式はローマ風を取り入れ、風俗、習慣はローマそのものでした。ローマを誇りに思っていたのです。

彼らはローマにふさわし生活をしていたのです。クリスチャンの生活もそうです。福音によって私たちは国籍を天にもつものとされました。

この世の国籍ではありません。地域に、それぞれの国に分かれて住んでいますが、同じ国籍を持ち、同じ目標を目指して歩んでいるのです。

人間は差別の中に生きています、民族的差別、教育的差別、経済的差別、職業的差別、そして性(男女)の差別です。

どれ一つとっても根源的な解決は不可能に見えます。しかし信仰によってキリスト者は一つとされたのです。

霊を一つにし、心を一つにし福音の宣教のために戦うことなのです。福音の戦いは決して独りではありません。多くの兄弟姉妹が同じたたかいをしています。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より


お知らせ

米田ひろしヒーリングコンサート
7月16日(金) 午後2時~4時
米田さんの音楽と語りに癒されませんか
入場無料

千葉三浦綾子読書会
7月17日(土) 午後2時~4時
会費300円
課題図書 氷点 上

2010年7月1日木曜日

米田ひろし ヒーリングコンサート



米田ひろし ヒーリングコンサート
7月16日 午後2時~4時  無料です。
ぜひお越しください。

今の喧騒から逃れて、心やすらぐひと時を持ちませんか
心に響く音楽と語り
知っている人は知っている米田ひろしの世界

2010年6月28日月曜日

今週の聖句

彼らは、心配し、身を震わせて、互いに言った。「神は、わたしたちにいったい何ということをなさったのだろう。」(創世記42:28)

自分の身に起こった出来事が理解できなくて、心配をしているヤコブの息子たちの姿がリアルです。この真相をしっているわたしたちには、滑稽に映ります。

全世界が飢饉でした。カナンのヤコブ一族も食糧難に苦しんでいました。ヤコブはエジプトに穀物があると聞き、息子たちをエジプトに下らせ、食料を買いに行かせたのです。時のエジプトの宰相は、かつて自分たちが憎み、イシュマエル人に奴隷として売った弟のヨセフでした。その弟ヨセフがエジプトの宰相になっていたとはそれこそ、夢にも思わぬ出来事でした。人生の大逆転劇です。しかし、弟ヨセフは目の前に穀物を買いに来たのが自分の兄と知ったのですが、自分の身分を明らかにしませんでした。

そして、彼らの穀物代金を、彼らに知れぬように、ヨセフが彼らのロバの飼料袋に戻しておいたです。この聖句はこの時の彼らの驚きの言葉です。

思わぬ祝福を受けた時、人は誰でもいぶかって、神は何ということをなさったのだろう思います。

人は目の前に起きてる、その時のことだけを考え、決断します。あるいは感情のままに行動してしまいます。そのとき、その時が、あなたにとって最善であったのです。

最後に父ヤコブが死んだ後、ヨセフの報復を恐れた兄たちがヨセフにいいます。

わたしたちはあなたの奴隷です。ヨセフは彼らに言った。あなた方は、私に悪を計りましたが、神は良い事のための計らいとなさいました。(創50:20)

神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益として下さることを、私たちは知っています。(ロマ8:28)

明日のいのちさえ分からないのです。ですから万事が益として下さること知って生きるのです。ここにクリスチャンライフがあります。

祝福をお祈りします。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
米田ひろし ヒーリングコンサート
7月16日 午後2時~4時  無料です。
今の喧騒から逃れて、心やすらぐひと時を持ちませんか
心に響く音楽と語り
知っている人は知っている米田ひろしの世界

2010年6月21日月曜日

今週の聖句

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15:6)

アブラハムが割礼のある者、割礼のない者の父となった記事です。かれは、割礼を受けていない時、信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしをうけたのです。それは、割礼を受けないままで信じて義と認められる、すべての人の父になり、また割礼のある者の父となるためでした。

アブラハムは信仰の父です。救いは恵みと信仰とによるのです。余りに単純でやさしいので、現代の人はむしろ疑うほどです。何だ、こんな簡単なことか。そうです、いまは、こんな簡単なことが出来ないのです。心がこざかしさに満ち溢れているからです。損得を考え、利を考え、友人知人を考えるからです。人と同じことをすることは平気なのです。自分独自の行動はなかなか難しいようです。

人は信仰によって本来のあるべき自分を見出す者です。ダマスコの王べネハダテは有能な将軍でした。らい病にかかっておりました。その妻の女奴隷から、このらい病を癒すものがサマリヤに住んでいることを聞かされ、預言者エリシャを訪ねます。預言者は、神のまったき力を現わすために、本人に会わず、ヨルダン川で7度身をあらうように命じました。

侮辱されたように感じた将軍は、そのまま帰ろうとするのですが、部下の勧めに従いヨルダン川で7度身を浸すとらい病は完全に癒されたのです。自分の高慢を捨て、神の御ことばに従う時救われるのです。

信仰は単純です。信じるなら救われるのです。今の時代、このシンプルさのない時代です。神は心のこざかしいものを決して顧みない。(ヨブ37:24)

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254

礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
6月5日(2時から4時まで
会費200円
課題図書 氷点 上

2010年6月14日月曜日

今週の聖句

神のみこころは、あなたががた聖くなることです。(Iテサロニケ4:3)

神様がわたしたちに望んでいることは、私たちが聖くなることです。今の時代もパウロの活躍した時代も人の本質は変わりません。

人は不品行を好み、汚れの世界に遊び、好色におぼれます。この背後にあるのは真の神を否定する偶像礼拝です。

地上の体の諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。(コロサイ3:5)

偶像礼拝の本質はむさぼりです。

この世の宗教のあり様はまさにそのことの証明ではないでしょうか。大きな伽藍を建て多くの信者を集め欺き、詐欺まがいの商法で金を集めています。

信者の数を競い、お金でその実力を誇示します。まさにむさぼる行為です。

わたしたちはこの地上でキリスト・イエスを信じても、肉体を持ち、古き自我に苦しめられています。人はそれぞれ自分の欲にひかれます。おびき寄せられます。

その目は淫行にみち、罪に関しては飽くことを知りませんと聖書は教えています。心の定まらないものたちを誘惑し、その心は定まりません。

なんと人間の本質は罪そのもの、悪と汚れではないでしょうか。その先は滅びが待っているのです。

パウロの叫び、誰がこの死のからだから救い出してくれるでしょうか。

わたしたちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。そうです、罪から解放されて、聖く歩むことなのです。

祝福をお祈りいたします。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254

礼拝 毎日曜日 午後3時より
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
7月17日(土)2時から4時まで
会費300円
課題図書 氷点 下

2010年6月7日月曜日

第2回千葉三浦弥子読書会開催のお知らせ

7月17日(土)、第2回千葉三浦弥子読書会を午後2時から4時まで、幕張本郷クリスチャンコミュニティで開催いたします。 

期日 7月17日(土) 午後2時~4時
場所 幕張本郷クリスチャンコミュニティ
小説「氷点」下を学ぶ予定です。
会費300円
課題図書 氷点 下の予定


是非ご参加ください。連絡佐々木まで。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
日曜礼拝 日曜午後3時~
水曜集会 水曜午後1:30分~

今週の聖句

私は、いいます。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラテヤ5:16)

肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。

こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。パウロの論旨は徹底しています。肉に属するものは神の国を相続することはないということです。

クリスチャンの望みは神の子とされ、神の財産を相続することです。パウロはこのことの価値をよく知っていました。国籍を天に持ち、栄光の体に変えられ、永遠に神と共に生きることの絶大さを知っていました。この世において私たちは、天国への希望に生かされながら御霊の実を結ぶものとして生かされています。

御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。肉の行いと御霊の実のこの対比、わたしたちのうちにあるキリストの品性が豊かでありますように祈ります。

主の平安をお祈りしています。

千葉三浦綾子読書会も6月5日8名の参加でスタートしました。皆さんのお祈りを感謝しています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より


お知らせ

次回千葉三浦綾子読書会
7月17日土(2時から4時まで) 幕張本郷クリスチャンコミュニティ
会費300円
課題図書 氷点 下の予定

2010年5月31日月曜日

今週の聖句

わたしたちはあなたがたの信仰を支配しようといている者ではなくあなたがたの喜びのために働く協力者です。(Ⅱコリント1:24)

パウロのなんと謙遜で、奥ゆかしい言葉でしょう。教会の中でも、人間関係をフラットに築くことはなかななか大変なことです。年齢差があり、学歴差があり、男女差があり、それぞれの生活を負っているからです。一人一人の発言には、その人の経験があります。

また支配されることを喜ぶものもあり、支配したい人もいます。小さな教会は、世的な世界の縮図です。しかし、教会は本来、この世の世界から離れた存在です。

まったく新しい価値観の世界です。世の光であり、地の塩であり、そして自分を愛するように、隣人を愛する世界です。

パウロはこれらを理解したうえで、あなた方の喜びのために働く協力者です。あなた方は信仰に堅く立っているからですと。

なんと謙遜で、自分の働きをわきまえ、なおかつ私たちを尊重して下さるのでしょう。同じイエスに在るそれだけの理由です。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より


お知らせ

千葉三浦綾子読書会
6月5日(2時から4時まで)
会場 当教会
会費200円
課題図書 氷点 上 
講  師 池田真一(三浦綾子読書会運営委員)
ご出席ください。

2010年5月20日木曜日

今週の聖句

わたしは、あなた方に平安を残します。わたしは、あなたがたに平安を与えます。(ヨハネ14:27)

今は不安の時代です。イエス様の時代も同じく多くの群衆は不安でした。いつの時代も、どのような人も不安なのです。世の中が刺激的になり、時代の移り変わりが早くなればなるほど、不安は募ります。昔も今も不安、心配、危険、恐れの本質は変わらないのです。ただ年々再々時代の変わりようが早くなり、不安をあおってゆくのです。

聖書はその不安の解決を与えています。イエス様から来る平安です。わたしたちは自力で平安、心の平静を獲得しようとします。瞑想します。あるいは修行します。または過食に走ったり、ショッピングにと、なにか心の落ち着きを求めます。自分の平安を獲得する手段です。聖書は獲得するものではなく、平安は与えられるものと教えています。

聖書はシンプルに、イエス様はあなた方に平安を与えますと言われます。わたしたちはその平安を信じればよいのです。イエス様の平安とは、イエス様がわたしたちと共におられるということです。

あなた方は心騒がせてはなりません。恐れてはなりません。と書かれています。心を騒がせる、恐れるなとは、不信仰な者の心の状態です。イエスを信じると言いながら、聖書のことばを信じることのできないものは、心騒がせる者です。

聖書の言葉をシンプルに信じることが平安なのです。

祝福をお祈りいたします。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
千葉市花見川区幕張本郷3-5-30
佐々木 博
043-275-5254

お知らせ
6月5日(土)午後2時~4時
会場 当教会
千葉三浦綾子読書会 氷点 上
会費200円

2010年5月10日月曜日

今週の聖句

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。(イザヤ41:10)

現在は毎日、理解できない様な出来事が起きています。想像外の出来事です。毎年3万以上が自殺し、行旅死亡者が同じく3万人以上いるといわれています。行方不明者です。

こうした厳しい現実に立たされると、私たちは途方にくれます。何をしてよいのか理解できません。余りのつらい出来事の前にたじろいてしまいます。おたおたしてしまいます。自分の無力さ、弱さを痛感させられます。

しかし神様は変わることなく、たじろぐな、わたしがあなたの神だからと言って下さるのです。これはすごい事です。天地創造の神様が、あたしがあなたの神だからたじろぐなと、直接励まして下さるのです。

神様は嘘の言えないお方です。約束を破るお方ではありません。誠実に事をなしてくださる方です。毎日の生活の中で、わたしが神だからの約束を経験しませんか。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254

千葉三浦綾子読書会のお知らせ
期日 6月5日 午後2時~4時
場所 幕張本郷クリスチャンコミュニティ
小説「氷点」上を学ぶ予定です。
参加費200円

2010年5月6日木曜日

第1回千葉三浦弥子読書会開催のお知らせ

*6月5日の集会は無事終了しました。8名でのスタートでした。皆さんのお祈りを感謝しています。

6月5日、第1回千葉三浦弥子読書会を午後2時から4時まで、幕張本郷クリスチャンコミュニティで開催いたします。 

期日 6月5日 午後2時~4時
場所 幕張本郷クリスチャンコミュニティ
小説「氷点」上を学ぶ予定です。
会費200円
課題図書 氷点 上 
講  師 池田真一(三浦綾子読書会運営委員)


是非ご参加ください。連絡佐々木まで。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
日曜礼拝 日曜午後3時~
水曜集会 水曜午後1:30分~

今週の聖句

そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、わたしがいる時だけでなく、わたしのいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。

パウロは霊的な成長には二つの部分があることをのべています。一つは救いを達成する部分であり、今一つはあなたがたのうちにはたらいて志を立てさせ、ことを行わせて下さるのです。

救いは自分の努力で達成するものではありません。恵みとして与えれた神からも賜物です。ですから救いを達成しなさいとは、私たちの努力によって救いを獲得すことではなく、自分たちの努力によって霊的な成長のための努力をする事です。

この為に神様は二つの手段を与えて下さいました。

一つは聖書です。聖書こそ、わたしたちの生活の基準であり、人生の規範になるものです。Ⅱテモテ3:16にあるとおりです。教えと戒めと矯正と義との訓練のために必要です。わたしたちは聖書を通して日々の生活歩んでゆきます。

また聖霊を与えて下さっています。わたしたちは聖書を読み、聖霊によって導かれ、聖霊により頼んで生活をしてゆきます。それは祈りです。わたしたちはどれほど神様に信頼しているか、それはあなたの祈りのリストを見れば良く分かります。

わたしたちが祈る祈りが、一つ、一つあなたが神に信頼している証です。朝起きて、ご飯を食べることから、買い物をする、人に会う、決断をする、必要、興味、スケジュール、そして眠るまで、その生活すべてを祈りのもとで行うことです。

そして、わたしたちが行うことがらは、神様がその志を与え、また行う力も与えて下さるのです。

しかし、行うスイッチを入れるのはわたしたちの責任です。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
日曜礼拝 日曜午後3時~
水曜集会 水曜午後1:30分~

2010年4月27日火曜日

今週の聖句

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(Ⅰテモテ3:16)

聖書をどのように読むのか、分かり切ったことですが、その読み方で信仰生活が違ってきます。

私たちは聖書を誤りなき神の言葉として受け取っています。そして、神の言葉として理解し、読んでいます。聖書はまずわたくしたちに何を語りかけているのか、その語りかけを理解しなければならないと思います。神様が今日、今聖書を読んでいるわたし自身に何を語っているのか知らなければならないと思います。神様が聖書を通して私に語っておられるのです。

また、ただ単に理解した、ただ単に読んだというのではなく、聖霊の導きによる啓示の書でもあります。啓示は霊感によって与えられる神様の知恵です。啓示は神様との祈りの中で与えられるものです。聖書を毎日読み、お祈りをし、神さまからの語りかけに意識を集中している時に与えられるものです。

以上二つの事は皆さんが毎日行っていることだとおもいます。

神様からの祝福と恵みを頂く単純な方法です。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
千葉市花見川区幕張本郷3-5-30
礼 拝  日曜日 午後3:00~4:00
祈祷会  水曜日 午後1:30~3:00

2010年4月19日月曜日

今週の聖句

わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。(イザヤ57:18)

毎日の生活の中で、自分の信じる道が一番と多くの人は考えています。自分の道をまっすぐに歩んでいこう。多くの人たちはそう考えています。その先に自分の幸福を見ています。

しかし、聖書はその道の結果は死であると教えています。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14:12)

神様はその死に気がついた人をいやそうと言われます。

自分の進むべき道に迷った時、否、毎日進むべき道を見出せずに悩んでいるのではないでしょうか。そんな私たちを導いてくださいます。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:6)

自分の弱さ、愚かさ、醜さ、無力さを悲しんでいる者たちに、主は恵みをもって報いようと言われます。

私が弱い時にこそ、私は強いからです。(Ⅱコリント12:10)

わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。(Ⅱコリント12:9)

パウロの実感です。

弱さ、万歳です。愚かさ、感謝です。醜さ、わたしです。そういえたら人生楽になります。キリストの恵みが満ち溢れます。

聖書のなかにこそ慰めがあります。恵みがあります。神の祝福があるのです。

平安をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
千葉市花見川区幕張本郷3-5-30
日曜日礼拝 午後3時~4時
水曜日礼拝 午後1時30分~3時

2010年4月16日金曜日

特別礼拝と講演会「三浦綾子著「塩狩峠」の世界を語る-アホになって生きる幸い」、大変恵まれました。



4月11日森下先生を迎えてのセミナーは大変恵まれました。参加者は25名を超え、多くの方が感動しました。三浦綾子読書会も発足を予定しています。詳細が決まり次第お知らせいたします。

2010年4月15日木曜日

今週の聖句

ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。(コロサイ1:24)

「キリストの福音はすべての造られた者に宣べ伝えられているのです。そしてわたしたちはこの福音の土台、十字架と復活にしっかり堅く立っているのです。コロサイの人たち、だから、わたしはあなたがのために受ける苦しみを喜びとするのです」

パウロが宣教した伝道地ですべてに問題がなったわけではありません。むしろユダヤ主義的クリスチャン、外からは異邦人、内からはユダヤ人の問題、正に内外ともに多くの戦いがありました。

しかし、パウロはしっかりとした土台にたち、既に聞いた福音の望みから外れないようにとコロサイの人を励ましました。

だからこの十字架と復活の中に真の救いがあるのです。永遠に生き、かつ望みがわいてくるのです。このことを知ってパウロはコロサイの人を励ましたのです。今も昔も本質は変わりません。信仰の土台は十字架と復活です。

十字架はキリストにあって自分が死ぬことです。自分のふがいなさ、情けなさ、だらしなさ、愚かさ、ダメさ、その他もろもろものことをしっかりと理解をして十字架を受け入れ、死ぬことです。そんなだめ人間のために死んでくださったイエスの事をことを知るときに、私たちの人生が変わります。苦しむことが喜ぶということになるのです。クリスチャン人生とは、他の兄弟姉妹の苦しみを自分の苦しみとして、それを喜んで生きていくことなのです。そんな馬鹿な人生がありますか。イエス様の人生です。

主の祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
043-275-5254

2010年4月5日月曜日

今週の聖句

アブラハムは彼に言った。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」(ルカ16:31)

この個所は、お金持ちと貧しい男ラザロの有名な物語です。ラザロは、毎日お金持ちの門前で物乞いをし、全身におできができ、そのうみを犬がなめているという悲惨な状態です。しかし金持ちは、紫の衣を着て細布を身につけていました。そして毎日贅沢に暮らしていました。

神様から与えられたすべての祝福を、自分のため、快楽のために使っていたのです。門前で物乞いするラザロなど眼中にありませんでした。死んで貧しいものは天国に、信仰の父のふところに抱かれていました。お金持ちも死にました。

彼はハデスで苦しみを受けながら上を見ると、ラザロがアブラハムに抱かれているのが見えました。

そこでお金持ちは、アブラハムに言いました。「ラザロを生き返らせ、私の5人の兄弟のところに遣わし、こんな苦しむところに来ないように説得して下さい」。アブラハムは言いました。「彼らには、モーセと預言者とがあります。その言うことを聞くべきです」。

「貧しいものは幸いです。神の国はあなた方のものです」。しかし、富んでいるあなたは哀れな者です。慰めを今受けているからです。

生前の生き方で死後の報いが変わります。賢くいかに永遠の命を受くべきかをお考えください。多々、単純にみ言葉を信じましょう。

祝福をお祈りしています。

2010年3月30日火曜日

今週の聖句

確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。(Ⅱコリント13:4)

端的に十字架と復活が語られています。キリストが持つ弱さとは、人間が持っている弱さそのものです。彼は100%完全な人間として生まれ、一度も罪を犯すことなく、その生涯を終えられました。人間の持つ原罪の弱さ、苦しみ、悲しみ、愚かさ、理不尽なこと、不条理なことすべてを経験されたのです。

神が人間となり、あらゆることを経験し、その苦しみから救って下さる。到底理解できることではありません。十字架のことばは滅びゆくものには愚かなのです。しかし、彼を信じる者には神の力、神の知恵なのです。ここにキリスト教の奥義があります。

私達の人生にありとあらゆる問題がおこります。24時間、ずっと問題だらけです。神様はこの24時間を通して、私たちを救い、導こうとしておられるのです。私たちは聖書と祈りと信仰ですべてを解決できると考えています。その通りです。そのエクササイズが日常の問題です。課題です。

人生の解決策の答えは、私たちに起きることがらの一つ一つに意味のあることに気がつくことです。自分の生きている人生に意味を見出すことです。無駄に生きていないことを知ることなのです。

どんな人にも存在の意味があります。神が関わって下さったのです。それが十字架の救いです。神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛されました。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。今私たちは生きています。キリストが神の力に生きたと同じく復活の力に生かされているのです。

平安をお祈りいたします。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博

2010年3月22日月曜日

今週の聖句

いつも喜んでいなさい。絶えずいのりなさい。すべてのことに感謝しなさい。これがイエス・キリストにあって神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ5:16~18)

この聖書個所は、私たちが与えられた人生を如何に生きるかを教えています。2度とない人生を賢く生きるすべを教えています。

喜びなさい。人生の中で喜ぶことは少ないのです。多くは苦しみであり、悲しみです。そうした人生において喜びなさいと命じられています。喜ぶとは神を喜ぶことです。なぜなら神ご自身が、私たちが喜ぶことを願っておられるからです。喜ぶ力もあたえて下さるのです。神を喜び、神に喜ばされる、これがクリスチャンライフです。

絶えず祈りなさい。どんな小さなことでも祈りから始めることが祝福に与る秘訣です。神様は私たちと深いかかわりをもつことを望んでおられます。それが祈りです。恥ずかしい事はなにもありません。立派な祈りもひつようありません。幼子の如く「あぱ、ちちよ」と呼びかければよいのです。祈りほど自分をさらけだして神の御前に出るべきなのです。

感謝しなさい。感謝できないときに感謝をする。それは自分が何物かをよく知った時ではないでしょうか。神の恵みに与かる時、私たちはその恵みにあづかることにふさわしいとは思いません。だからありがたいのです。だから感謝なのです。

園綾子さんは老人の最大のご奉仕は感謝をすることだと書いていました。どんなことに対しても感謝をする。周りを明るくする。こんな人生こそが賢い人生の送り方です。

祝福がありますように。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
047-486-1981

2010年3月15日月曜日

今週の聖句

議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目をそそいだ。すると、彼の顔は御使いの顔のように見えた。(使徒の働き6:15)

彼は議会に訴えられ、多くの偽証者によって、うその非難が浴びせられました。しかし、彼は御使いのように輝いていたのです。

ステパノは恵みと力にみち、人々の間で、素晴らしい不思議なわざとしるしを行っていた。ステパノは恵みに満ちていた。彼の生活は恵み、神様から与えられた好意にあふれていた。その行動は好ましく見えた。

その行うところみな栄えたのです。

また御言葉に伴う確かなしるしがあった。悪霊を追い出し、病をいやした。

おおくのしるしがあり、御霊に満ち溢れていました。

また天からの啓示による知恵が与えられていた。

神に関するもの、御言葉に関すものの知恵です。啓示によらなければ与えられない知恵です。そして御霊によって語っていたのです。

聖書の教えるクリスチャン像です。ルカは模範としてステパノを描きました。しかし近所で評判の良い人はまだ6人もいるのです。わたしたちもこのようなクリスチャンライフを送りましょう。

それは簡単です。聖書の神様を信じることです。謙遜に、素直にそして御霊に満ち溢れることです。

平安をお祈りしています。

佐々木 博

2010年3月8日月曜日

特別礼拝と講演会―三浦綾子「塩狩峠」の世界を語る

特別礼拝と講演会
三浦綾子著「塩狩峠」の世界を語る-アホになって生きる幸い

特別礼拝:4月11日午前11時~12時(昼食を用意致します)
(通常の礼拝は午後3時からです)
特別講演:4月11日午後2時30分~4時まで

講師:森下辰衛先生(元福岡女学院大学助教授)
三浦綾子記念文学館特別研究員、三浦綾子読書会顧問。その語り口、その情熱、三浦綾子文学を地で行く人柄とメッセージに私は感動しました。是非皆さんとご一緒に先生のメッセージ、お話をお聞きしたいとおもいます。

会場: 幕張本郷クリスチャンコミュニティ
〒262-0033千葉市花見川区幕張本郷3-5-30
電話:043-275-5254



このことのためにお祈りください。宜しくお願いたします。

今週の聖句

そこで、兄弟たち、あなた方の中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち7人を選びなさい。(使徒の働き6:3)

教会は急激な成長を遂げました。ペンテコステの日から男性が3000人、5000人と救われました。この間2年です。女性、子供を加えると2万人弱でしょうか。大変な数です。

とうてい使徒たちだけでこの大勢の人を養うことができなくなりました。教会の中の差別です。軽視です。ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人に対して苦情を申し立てました。毎日の配給でなおざりにされていたからです。この緊急事態に使徒たちは、この働きを信徒に委ねることにしました。7人の役員を選出しました。

その条件が御霊と知恵にみち、評判の良い人でした。この代表がステパノでした。7人の中の代表として、彼の働きが記されています。彼は恵みに満ち、力にあふれ、知恵と御霊によって語りました。

知恵のあるものでした。聖書は知恵をとても大事にしています。知恵とは神につき世界と人間に対する正しい理解力と知識です。神の啓示によって与えられるものです。これは上から与えられるものです。

私たちは正しい神認識をもつとき、自分がどんな存在であるかを知ることが出来ます。ヨブが良い例です。ヨブに神はこう言われました。

主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするものは誰か。神は心のこざかしい者を決して顧みない。

上からの知恵は純真であり次に平和、寛容、温順であり、またあわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけでないものです。(ヤコブ3:17)

今の時代この知恵が求められます。賢く知恵をいただいていきましょう。

祝福をお祈りいたします。

幕張本郷クリスチャンコミュニテイ
043-275-5254
佐々木 博
礼拝  毎週日曜日 午後3時から
集会  毎週水曜日 午後1時30分から

2010年3月1日月曜日

今週の聖句

こうして、ダビデの名声はあまねく全地におよんだ。主はすべての国々に、彼に対する恐怖を起こされた。(Ⅰ歴代誌14:17)

11章からダビデ王朝の確立が描かれています。キラ星のごとく多くの勇士に支持され、民衆に支持され、13章ではダビデの勇み足のようにべレツ・ウザの悲劇を体験する。これは得意絶頂の時に陥る私たちの高慢の証です。敬虔な行為である神の箱を運ぶのに彼は無神経でした。神聖なものに対する思いがなかったのです。自分の考え、自分の行為に酔ってしまいました。その結果がべレツ・ウザです。

しかし、神はダビデを用いて、宿敵ぺリシテ人を打ち、その名声はあまねく全地におよびました。この祝福のもといはなんでしょうか。ダビデは神が彼に命じたとおりにしたことです(14:16)。私たちが神の命じた通りにすることは、自分の思いを第1にすることではなく、神の思いを第1にすることでした。

その結果彼の名声は全地にあまねく及んだのです。さらに驚くことに彼の戦上手に、周りの国は戦う前から恐怖を感じ、負け戦をしたというのです。その恐怖さえも神からの賜物でした。

私たちの人生で勝ちえて余りある人生とは、すべての領域が主の配慮の中にあるということです。そして神がすべての用意をして下さっていることを知ることです。

今の時代とても厳しいものですが、神様のご配慮の中に生かされています。

主の平安をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
日曜礼拝 日曜午後3:00~
やさしい聖書の話水曜午後1:30~

2010年2月22日月曜日

今週の聖句

そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。(使徒の働き6:1)

今でいう差別です。ヘブル語を使うユダヤ人がギリシャ語を使うユダヤ人を日々の配給でなおざりにしていた。無視していたというのです。これにたいして苦情が申し立てられました。

ペンテコステの日にペテロの説教を聞いて3000人が悔い改めました。また4章では5000人が悔い改めています。理由は人が増えたからです。この数に女性、子供の数を加えますと2万人余りの人々がいたことになります。ヘブル語を話すユダヤ人は神殿を中心に礼拝をし、ギリシャ語を話すユダヤ人は家を中心に礼拝をもっていました。家のない人は路上に天幕を張って路上生活をしていました。二つのグループが誕生したのです。どの組織でも人数がふえると色々なトラブルがふえてきます。

この問題は根が深いものです。差別は日常的に行われていました。ヘブル語を使うユダヤ人は、律法主義的信仰感、家内安全、商売繁盛、夫婦円満、大きい事、強い事は神様の祝福と考えていました。律法的クリスチャンです。そして、ギリシャ語を話すユダヤ人は神の恵からもれていたと考えられ、差別の対象になりました。

こんなことは絶対にいけないことです。許されないことです。新約の信仰はご利益的なものではりません。わたしたちの弱さを通して神の恵みが現れるのです。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。(Ⅰコリント1:26~29)

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
043-275-5254

2010年2月15日月曜日

今週の聖句

地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかなほそい声があった。(Ⅰ列王記19:12)

エリヤは王や神の民に対して、神の御声としての役割を果たす多くの預言者の一人でした。彼は北王国イスラエルがアハブとその妻イゼベルの指導によって誤った方向に進んでいることを憂いていました。

イゼベルによって神の預言者は悪者扱いされ、捕えられたり、殺されたりしました。イゼベルは異邦の出身であり、熱心にバアルの偶像礼拝を行っていました。さらにアシェラの預言者も養っていたのです。そこでどちらが真の神であるかを証明するためカルメリ山で450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者を集め、神の預言者はエリヤ一人でしたが対決し、見事に偶像の神に対して勝利をしたのです。彼は数多くの奇跡を行う人でした。

しかし、この奇跡のあとイゼベルに殺されることを恐れ、いのちを救うために逃げました。心が疲れたのです。神に養われて40日40夜歩いて神の山ホレブに着いたのです。ほら穴で一夜過ごした後、神の前に立ちました。主が通り過ぎられると激しい大風が山々を裂き、岩岩を砕いた。しかし、風の中にも、地震の中にも、火の中にも主はおられなかったのです。いったいどこに主はおられるのでしょう。

するとそのとき主のほそい声を聞いたのです。その声を聞いた時エリヤは納得しました。奇跡や癒しの体験を私たちは求めます。信じています。しかし、実際そのような経験が信仰を持続させ、信仰を深めることはすくないのです。

毎日のデヴォーションのなかで聞く神のほそい声こそわしたちの信仰を確かなものにさせ、神をさらによく知る源なのです。そして神に信頼し、神を愛する信仰こそが本当なのです。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
043-275-5254
日曜礼拝午後3時から
水曜集会午後1時30分から

2010年2月8日月曜日

今週の聖句

話し合ったり、論じあったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らと共に道を歩いておられた。(ルカ24:15)

イエス様が復活してから、マクダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤに現われたのち、エルサレムから11k余り離れたエマオ村にゆく途中の二人の弟子に現われたイエス様の記事です。彼らの関心事はもっぱら近頃エルサレムで起きた出来事、イエスの十字架の事でした。彼らはこの出来事が理解できずにエマオに向かう途中でした。

この時イエス様がこの二人の旅の同伴者になって下さったというのです。彼らは混乱していました。自分たちが信じ従ってきたイエス様が十字架に架かって死んでしまった。このことが分からず不信仰に陥ってしまいました。

この時イエス様から近づいて下さったのです。現代は人との関わりを嫌う時代です。生涯未婚が女性で3人に一人、男性で4人に一人です。行旅死亡人いわゆる行き倒れ、または引き取り手のいない死人のことですが、約3万2千人もいます。

驚くばかりの人数です。孤独な人が多いのでしょう。私たちはこの世では旅人であり、寄留者です。厳しいこの世にあって、困難な時、苦しい時、つらい時、悲しい時、忍耐の時、いやな時、一人さびしい時イエス様から近づいて下さり一緒に歩んで下さるのです。なんとなんとありがたい事ではないでしょうか。私たちは一人ではないのです。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなた方とともにいます。
(マタイ28:20)

イエス様の約束です。

誰も一人ではありません。

平安をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
日曜礼拝 午後3時から
水曜集会 午後1時30分から

2010年2月1日月曜日

今週の聖句

そればかりではなく、艱難さえも喜んでいます。それは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ロマ5:3,4,5)

有名な聖句です。神様の用いる艱難が、現実が書かれています。主は私たちを24時間通して訓練するのです。そんなに信仰は甘くありません。

艱難は肉体的なものに対する外からの苦痛、苦しみを指します。肉体が病み、家族が、夫が、妻が、あるいは兄弟が介護が必要な時、介護を受ける者も介護するほうも大きな艱難を抱え込みます。

艱難は忍耐を生じます。艱難と忍耐はセットです。艱難が来ると忍耐は自動的にスイッチが入り、忍耐が始まります。忍耐は神からの試みです。

その信仰をためし、信仰のテストです。人は必ず死ぬ時、人のお世話になる存在です。お世話する期間が長いか、短いかそれぞれです。

人生には老いも若きも必ずこの艱難に出会うのです。失業、事故、病気等人の知らないものはありません。

そして忍耐を働かせるのです。まさに忍耐です。我慢です。この忍耐の時に自分の人生の有り様、性格、生き方がチェックされ、自分の愚かさ、弱さ、性格等が変えられていくのです。

忍耐によって人格がキリストに似た者とされ、人格、品性の深みが出てくるのです。品性が練られ、幾度も修羅場を越えた老兵は、状況を賢く判断し自分の役割を果たすことができるのです。クリスチャンのしぶとさです。私たちはこうして信仰が練られ、キリストに似た者とされ、天国への希望を持つことができるのです。今は艱難の時代です。この艱難の中にこそ確かな希望があるのです。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニテイ
043-257-5254
佐々木 博
日曜礼拝 午後3時から
水曜礼拝 午後1時30より

2010年1月26日火曜日

今週の聖句

私たちは機会のあるたびに、すべての人に対して善を行いましょう。(ガラテヤ6:10)

人生の不可思議。私はマンション住まいです。わずか48戸の小型マンションですがこのマンションに48通りの家族がすみ、毎日幸せにくらしています。ドア1枚で中の様子は全く分かりません。

しかし、一皮むくと、そこに夫婦喧嘩があり、親子のいさかい、兄弟げんか、離婚の危機、介護の必要な老人、受験生、病に伏せるもの、独員、借金という人生のすべてが存在していると思います。そして文字通り幸せな家族もいるのです。

外から見ると幸せに見え、内から見ると全く逆の風景が見えるものです。外からは中の様子、生活の状態など全くうかがいしれません。

私たち一人一人も同じです。あなたの心の中など誰が分かるでしょうか。夫婦といえども、恋人同士でも、親子でもそれぞれの思いを知ることは不可能なのです。

私達の思いは自分の思いがあふれ出て、行為となって現われた時に分かるのです。その人はその実によって分かるのです。

あなたがたは実によって彼らを見分けることが出来ます。(マタイ7:16)

私たちが毎日さりげなく行っている行為の中にあなたの信仰があり、品性があり、人格があるのです。それは隠すことできません。見えも良くすることはできません。

隠すことも、見えもあるがまま神様のまえに、罪許された者として歩むことが出来たらどんなに素晴らしいことでしょう。神様はすべてご存知であり、神様が共にいて下さるからです。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博

日曜礼拝  毎週日曜日 午後3時
水曜礼拝  毎週水曜日 午後1時30分

2010年1月20日水曜日

今週の聖句

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次の事です。キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと・・・
(Iコリント15:3)

私は今年の初めから大変厳しい人生を送っているご家族と、見事に主の証しの人生を全うした2家族の葬儀に立ち会いました。ご家族として初めて家族旅行し、旅行先で8ヶ月の胎児を死産した若いご夫婦です。またもう一人の方は71歳でしたが、パーキンソン病と闘い見事に良き証しを立てて、天国に召された兄弟です。

8ヶ月の胎児は女の子でした。1週間前に検診を受け、大丈夫といわれ、お正月の帰省旅行でした。朝には大きな喜びと期待に膨らんでの旅行でした。しかし、6時間の長旅に母子共に無理であったのでしょう。

このご家族は昨年の10月に3年間白血病と戦った7歳の女の子を失っているのです。なんとなんとこの傷が癒される前に、3月出産予定の女の子を失ったのです。言葉もありません。

71歳の兄弟は長老として神と教会に仕え、所属教会の基礎を築き、会堂建設に用いられ、それは見事なキリストの実を結んだ生涯でした。12年間パーキンソン病と闘ったのですからこの人生も厳しかったと思います。パーキンソン病は脳から出る神経伝達物資ドパミンの減少により、体の動きが出来なくなる病気です。年ごとに、月ごとに、日ごとに衰えを感じる毎日。当人でなければ分からない、悩みや苦しみ、悲しみ、それにご家族、しかしこうした人生の中にある希望と慰めは何だろう。

それは復活です。天国で再会できる、この見ゆる地上での生涯はどうであれ、クリスチャンの持っている希望は復活です。栄光の朽ちない体によみがえる信仰です。

キリストは私のためにも、あなたのためにも十字架にかかって下さいました。そしてあなたのために私のために栄光の体をもって復活されたのです。

祝福をお祈りしています。

ほっとして、勇気がでて、元気の出る
幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博
043-275-5254
日曜礼拝 毎週日曜日午後3時
水曜礼拝 毎週水曜日午後1時30分

2010年1月11日月曜日

今週の聖句

イザヤ53章

私は良い男でもなく、良い女でもない。生き生きとしているわけでもなく、幸せな人生をスタートさせたわけではない。私は軽んじられ、人から疎んじられ、相手にされない。私から出てくるのは愚痴ばかりです。私は悲しみ、病んでいる。私は本当に軽んじられている。誰も私を理解し尊敬してくれない。私の人生は暗く空しい。希望もない。しかし、私の人生が同じ境遇の人たちの心の安らぎとなり、励ましとなることを私は知った。

私は苦しんだ。しかし、忍び耐えた。私は絶望した。が、神が共にいることを知った。私は誠実に生きていると思った。真実に生きた。しかし、神から遠かった。すべてが自分中心であった。

私が苦しむこと、悲しむこと、悩むこと、心弱くなること、いらだつこと、ひとりであること、迷いの中にあること、私の存在を悲しんだ。毎日が不安と恐れの中にあった。

しかし、思った。私は神に選ばれ、神の人生を生きていることを知った。

信仰生活の中で闇の中にあり、落ち込んでいる時、信仰と自分のはざまでもがいている時、イザヤ書53章は大きな慰めです。

パウロ書簡を読んでいますとパウロ自身がこんな経験を沢山したのだと感じています。

マケドニヤに着いた時、私たちの身には、少しの安らぎがなく、さまざまの苦しみがあって、外には戦いがあり、内には恐れがありました(Ⅱコリント7:5)。

私が弱い時にこそ、わたしは強いからです(Ⅱコリント12:10)。

わたしは、強くして下さる方によって、どんなことでも出来るのです(ピリピ4:13)。

皆さんの信仰生活は如何ですか。よくてもわるくても神は共にいて下さいます。

平安をお祈りしています。

ほっとして、勇気が出て、元気の出る
幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
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2010年1月5日火曜日

今週の聖句

ペテロはヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。(使徒の働き3:4)

毎日、宮に上り祈る人々から施しを求めるために、美しの門に運ばれてきた生まれつき足のきかない男に対するペテロとヨハネの態度です。

この足のきかない男は運ばれてきました。男は社会的、宗教的弱者でした。差別の対象です。社会から置き忘れされ、宗教的に神のさばきによって生まれながら身体に障害を持つ者とみなされてきました。まったく価値のない者と見られていたのです。

このような男に対して、ペテロとヨハネは私たちを見なさいと言ったのです。男の人格に声をかけたのです。聖書は、男は運ばれてきたと書いています。人は死ぬと物体になります。人は死ぬと運ばれるのです。

人は一緒に行きます。あるいは連れて行きますと言いますが、運ぶという言葉は使いません。この生まれながらの男は運ばれてきたのです。物として長いこと扱われてきた男にペテロとヨハネは目線をあて、私たちを見なさいと言ったのです。神の前に生きる人間として見たのです。

私たちは弱い立場の人にどれほどの優しを持っているだろうか。あるいはそうした存在に気が付いているだろうか。ペテロやヨハネのように私たちを見なさい、と相手の目に向かって、相手の必要に応えることが出来るだろうか。

そして、金銀は私にはない。しかしわたしにあるものものをあげよう。それは生きるすべての解決であるナザレのイエス・キリストを提示することです。男は声をかけられたときに、ペテロとヨハネを通して注ぎ込まれた信仰によって癒されていたのです。

どんなときにも、一人のかけがえのない者として接していく優しを欲しいと思います。

祝福と平安をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
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