2009年12月28日月曜日

今週の聖句

また、わたしたちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられる時にも祝福し、迫害されるときにも耐えしのび、ののしられるときには、慰めの言葉をかけます。今でも、わたしたちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。(Ⅰコリント4:12,13)

パウロのコリント教会への手紙の一節です。コリントの人々の霊的高慢、世的な生活の安逸に対する痛烈な皮肉です。パウロには皮肉ではなく彼の実際の伝道生活でした。

彼は天幕つくりをしながら伝道しました。彼の伝道生活は、非常な忍耐と悩みと苦しみと嘆きの中で、また、鞭打たれるときも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にもあったのです。

いいかえれば彼の出会った苦労で人に知られていないものはなかったのです。その根底にある認識は、この世のちり、あらゆるもののかすです。このちり、かすの存在が神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたのです。その現実に対してコリントの人々の信仰生活は対極にありました。

霊的な生活の飢え渇きに気がつかず、世的な生活をし、性的には堕落していました。彼らは自分の信仰生活が見えなかったのです。自己欺瞞の生活を送っていました。

コリントの教会はまさに世的なものでした。

それに対しパウロの自己認識は使徒の中ではもっとも小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。そして私はその罪人のかしらです。

私たちは一番注意をしなければいけないことはこの自己認識のありようです。

パウロはいいます。今でもそう、今でも救われた時以来、私たちはキリストの前に価値のない者、ちりであり、かすなのです。それを使徒として用いて下さったのです。

私たちもキリストのいのちある者として生かして下さいました。ありがたいことです。

あなたは自分をどんな存在だと考えていますか。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254 
日曜礼拝 毎週午後3時より
水曜礼拝 毎週午後1時30分より

2009年12月21日月曜日

今週の聖句

イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって・・・・(マタイ1:18,19)

もう皆さまは、昨日クリスマス礼拝を守られたことと思います。しかし、マリヤの信仰は称えられますが、夫ヨセフに光が当たるのは少ないものです。ヨセフにとって、キリストのご降誕はどんな意味を持っていたのでしょう。ヨセフがこの幼い子を養い育てたのです。

婚約者が、身に覚えのないのに妊娠をした。この事実にどれほど心が傷んだことでしょう。その苦悩はいかばかりであったか。今の時代、婚前交渉など当たり前、できちゃった婚などにも驚かない時代です。しかし、当時の男女関係は厳しく、律法に定められていました。姦淫は死刑です。それも残酷な石打ちの刑です。

彼らは婚約をしていましたので、実際は夫婦として認められていました。イスラエルでは婚約と同時に籍を入れ家庭生活を始めるのが普通でした。

彼女をさらし者にしたくなかった、内密にさらせようとした。ここにヨセフの人柄と信仰をみます。彼は正しい人であったと書かれています。悪いことをしないというよりも、律法を落ち度なく守る人でした。それだけにマリヤの身に起こったことが理解できず、受け入れることが出来ず、赦すことが出来なかったに違いありません。このことを思いめぐらしていた時、人間的判断で状況を理解できない時、主の使いの言葉によって、彼はこの出来事を理解できたのです。

ヨセフの役割は幼子イエスとその母マリヤを守ることでした。彼はそのあと、男子4人と女子を授かりますが、その消息を聖書は語っていません。

しかし、彼は十分に自分の役割をはたし、人生を生きたのだと思います。人それぞれに役割があり、人生があります。日が当たらなくても、当たっても、神様が賜った人生です。

主の平安をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254
日曜礼拝 毎週日曜日 午後3時より
水曜礼拝 毎週水曜日 午後1時30分より

2009年12月14日月曜日

今週の聖句

「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。(マタイ1:23)

この預言はイザヤ書にしるされています。ユダの王アハズの時アラムとイスラエルが連合を組みユダに攻めのぼり、ユダの国は全くの危機的状況の時に与えられた預言です。

人間が危機的状況に陥った時、神がともにいて下さることを信じることが出来たらどんなにさいわいでしょう。その確かな証が乙女から救い主がお生まれになるということでした。

イエスの福音は神の怒りからの逃れ、神に対する罪、病の癒し、人間性の回復、憎しみ、誤解からの和解、自分が等身大に生きる力と色々な側面を持っています。

また心の窮屈さからの解放と、今の私たちに必要な解決の答えを十分に持っています。

私たちは神から離れて、私自身も、私自身もまた状況の奴隷でした。こうした罪の状態から私たちを救うために、父なる神がその独り子をこの世にお遣わしになったのです。

来週はクリスマス。あなたは神様からどんなメッセージを期待していますか。

祝福と平安をお祈りいたします。

佐々木 博

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
クリスマス礼拝12月20日午後3時~4時
楽しいひと時を用意しています。

2009年12月7日月曜日

今週の聖句

だれでも、キリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神はキリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えて下さいました。(Ⅱコリント5:17,18)

人と人が理解し合い、赦し合うことは本当に難しいことです。心のすれ違いは、言葉を重ねて、語れば語るほど、遠く離れてゆくものです。どんなにこちらが願っても、聞く相手が心を開かず、聞く耳を持たなければ通じません。

ここに和解の難しさがあります。神はその難しい道を開いてくださいました。私たちがキリストの内にあることです。その人はキリストの命に生かされています。パウロは言います。私たちの心は広くあなた方に広く開かれています。あなた方が自分の心を窮屈にしているのはあなた方自身なのですと。

そうです、だれでもないのです。自分自身が心を閉じ狭くしているのです。しかし、心の狭さを、キリストによって開かれ、新しい人として歩んでいくのです。すべては神から出ているのです。

神と和解した者の祝福です。キリストの誕生はこの和解の知らせなのです。和解を受けた私たちはまた、平和の使者として、和解の伝達者としてこの務めを伝えるものなのです。

祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木  博
千葉市花見川区幕張本郷3-5-30
043-257-5254
日曜礼拝 毎週午後3時
水曜礼拝 毎週午後1時30分

2009年12月2日水曜日

今週の聖句

これらのことが片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目にとまらなかったものはないと思います。(使徒26:26)

これはエルサレムで、不当逮捕され、ローマの市民権を用いてローマ皇帝に上訴したため、ローマの兵士に守られ、ローマに行く途中カイザリヤでアグリッパ王とその妻ベルニケの前でパウロが弁明したことばの一つです。11月30日から待降節に入りました。12月のクリスマスまで、教会が一番忙しく、また楽しい時でもあります。

イエスの誕生はひっそりと、ユダヤのベツヘレムというダビデの町で生まれました。だれもお祝いの言葉もなく、生まれる場所もなかったのです。とてもさびしいものでした。周りから期待され、喜ばれて生まれてきたわけではありません。イエス様の生涯は最初から馬小屋で、飼葉桶という現実でした。ヨセフとマリヤはこれからの生活を考えれば大いに悩んだことでしょう。

しかし、聖霊はパウロを通してこう言わせています。これらのことは(ここでは十字架と復活のことですが)片隅で起こった出来事ではありません、と。エルサレムの中心で起こった出来事であり、そして、世界の片隅エルサレムもまた救いの中心になってゆくのです。

キリストの誕生の不思議と救いの不思議を思います。人はうまれる場所もなく、歓迎されて誕生するわけでもありません。しかし、イエスに出会う時、自分の存在が確認でき、目的が与えられ、自分の使命に生きることが出来るのです。救いはあなたの片隅に起きた出来事ではありません。イエスの誕生と、自分の誕生を喜びお祝いしたいと思います。

祝福がありますように。

佐々木 博

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
千葉市花見川区幕張本郷3-5-30
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2009年11月23日月曜日

今週の聖句

この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。(使徒の働き1:14)

この記事は、イエス様が復活したのち、40日の間、彼らにあらわれて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分の生きていることを使徒たちに示されました。彼らと一緒にいるとき、彼らにこう命じられました。「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい」

ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく聖霊のバプテスマを受けるからです。この聖霊のバプテスマを受けるために、彼らは祈りに専念していました。

父からの約束の聖霊を受けるために彼らは、復活のイエスを信じ、約束を信じて祈りに専念していました。この祈りに専念していた、訳を変えると、もっぱら祈っていた、あるいは、ひたすら祈っていた、といえます。

私たちが注意したいのは、聖書の中に約束されている賜物をいただく姿勢です。聖霊の賜物もまた約束の一つです。ここに記されている人たちは、みなイエスを信じ、聖霊によって新しくキリストは主ですと告白し、新生した人たちです。

その彼らが約束のものをいただくために、もっぱら祈っていました。祈りに専念していました。その中には弟子たちのほかにイエスの母マリヤ、イエスの兄弟も含まれていました。イエスの復活の確かな証拠です。

その彼らの求めていた賜物は聖霊のバブテスマです。イエスの証人となるために必要な力をいただくためです。

初代の教会は聖霊のバプテスマの働きが豊かでした。弟子たちが体験し、パウロが体験し、ピリポの伝道によってサマリヤの人たちが救われました。このサマリヤにエルサレム教会からぺテロとヨハネを遣わし、聖霊を受けるようにと祈ると、聖霊が彼らの上に下ったと書かれています。

聖書はたしかに、この聖霊の賜物を受けた記事がその他いくつか書かれています。私もいま、この聖霊の力を必要としています。ただ、証人となるためにです。そのためにもっぱら、祈りましょう。祈りに専念しましょう。聖書の書かれている約束を信じましょう。聖書の標準のクリスチャンになりましょう。

祝福をお祈りしています。

佐々木 博

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
千葉市花見川区幕張本郷3-5-30
043-257-5254
礼拝 日曜日 午後3時~4時
集会 水曜日 午後1時30分から

2009年11月16日月曜日

今週の聖句

私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の冨をもって、あなたがたの必要をすべて満たして下さいます。(ピリピ4:18)

パウロのすばらしい経験です。これは理屈抜きの体験者の言葉です。パウロの経験は、貧しさを経験しました。豊かさを経験しました。飽くことも、飢えることにも、富むことにもまずしいことにも経験し、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていたのです。彼の境遇はさらに過酷でした。39のむちで打たれたことが5度、むちで打たれたことが3度、石で打たれたことが1度そのほか、川の難、海の難、盗賊の難、教会の内外の苦しみがありました。パウロの人生を考えてみますと、この世的には全く幸せには縁の遠い生活でした。

しかし、なぜこのような信仰告白ができたのでしょうか。パウロはけっしてこの世的な幸せな人生を手に入れたわけではないのです。むしろ復活のキリスト・イエスに出会って彼の生き方、人生観、価値観が変わったのです。

人生のどんな窮乏の中にあっても、希望に通じるものでした。自分の目指していた、この世の価値観がくずれ、キリスト・イエスの絶大な価値の故にいっさいのものを損と思っているのです。ですから、パウロの信じる神様はくるしいことも恵として与えて下さったのです。

ここに新約の大きな祝福の鍵があります。パウロの理解によれば苦しむ事も恵なのです。ただ、パウロも十分経済的な必要を理解、また経済的に恵まれていた時期もあったのです。ですからパウロは私の信じる神様は、あなた方の必要をすべて満たして下さると告白できたのです。クリスチャンライフはどんな状況にあってもキリストの証をする生活です。

祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2009年11月9日月曜日

今週の聖句

与えなさい、そうすれば、自分も与えられます。人人は量りをよくして、押し付け、ゆすり入れ、あふれるまでにして、懐に入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ6:38)

クリスチャンの生き方が、受けるより与える方が幸いなのです。憎むを愛し、彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずにかしなさい。そうすればあなたがたの受ける報いはすばらしいと約束されています。

あなたに1ミリオン行けと強いる様な者には一緒に2ミリオン行きなさい。求めるものには与え、借りようとする者には断らないようにしなさい。自分を愛してくれる者を愛したからと言って何の、報いが受けられるでしょう。取税人も、同じことをしているではありませんか。(マタイ7:44)

キリスト者の生き方です。なかなか出来るものではありません。私なども何度も挑戦をし何度も敗北感におちいりました。キリストを信じ新しく復活の力にいくる者はこの生き方が標準なのです。なぜならこの生き方をキリストが要求しているからです。

イエス様は、私たち自分の力で達成できないことはご存知です。聖書の基準に達しない時それは幸いなのです。今の私はキリスのと恵により今の私になったのです。

あるがまま、力まず赦されている世界の恵みを数えましょう。そいてささやかでも人の役にたつ人間でありましょう。

佐々木

2009年11月2日月曜日

今週の聖句

私は贈り物をもとめているのではありません。私が欲しいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福です。(ピリピ4:12)

ローマに投獄され、軟禁状態とはいえ、自費で家を借り、来る者に福音を語るパウロに経済的に、その他の不自由を考え、エパフロテを送ったピリピの教会の、心をこめた支援献金には感動いたします。

献金という贈り物を通して、ピりピの人々はパウロの伝道に参加できました。パウロに対する献金のように見えますが、実は神への供え物だったのです。パウロはすべてのものを受けて、満ち溢れています。それは神への香ばしいかおりであって、神が喜んで下さる供え物です。(ピリピ4:18)

現在は生活に厳しい時代です。社会状況は決して良い結果を示していません。年金生活者といえども、実質収入は減収です。働く者が苦労し、就職活動に飛び回る時代です。Ⅱコリント8:1~を読みますと苦しみ故の激しい試練の中にあっても、彼らの満ち溢れる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す冨となったのです。(これは、マケドニや諸教会の献金の姿です。ピリピ教会も当然その中に入っています。)

しかし、パウロはこの献金を喜んで受けるのです。それは捧げるものに対して、ご自身の栄光の富の中から、豊に満たして下さる神を知っていたからです。さらにパウロの献金理解は捧げる者に「あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」パウロの伝道の背景にはこの栄光の富をもって支えて下さる神がおられるのです。

献金の本質はその人の霊的生活の証です、信仰の喜びの証です。このよろこびの故に献金をするのです。それは収支を償わせて余りある、霊的祝福です。神の富は神を愛し、隣人を愛する者に豊かに解放されています。
今の時代は、経済的に精神的に毎日が何らかの不安に襲われている時代です。そんな中、霊的祝福を求めて自分の財布の紐をゆるめてみませんか。

祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2009年10月19日月曜日

今週の聖句

そのようなことを心に留めなさい。(ピリピ4:8)

(1)すべて真実なこと、(2)すべての誉あること、(3)すべて正しいこと、(4)すべての清いこと、(5)すべて愛すべきこと、(6)また評判の良いこと、(7)すべて徳と言われること、(8)称賛に値することがあるならば、そのようなことをこころにとめなさい。

パウロは、私たちの国籍は天にありますとかたり、天国の国籍を持つ者にふさわしい生活をするように教えました。ここでその具体的な項目を述べています。

まず第1に真実なこと、いいかえれば、神に対しても人に対しても正直に生きることです。

私たちは二重の生活をしています。教会生活と社会生活です。二つの生活をしています。信仰に筋が通って無いのです。神に対して、人に対して正直に生きることです。すべて誉あること、世の中には私たち以上に人格的、社会的に御奉仕や社会活動をしている方々が大勢います。そうした人々に私たちは学ぶべき点がたくさんあるのです。

パウロは愛すべきこと、と述べました。魅力的なこと、人を引き付けることといった意味があります。

私たちの日常は、どんな証しの生活でしょうか。わたしたちは親切、思いやり、同情、寛容の精神で、周りの人から、なぜあの人はあんなに親切で思いやりがあり寛容なのだろうと証しされるほど、魅力的になってください。そして人を引きつけてよき証しを立ててください。

すべて徳と言われること。ピリピは異教社会です。わたしたちは偶像礼拝を避けますが、そうした異教文化に対して、異教文化の実践者たちから、その生き方を学ぶ余地はたくさんあるのです。

ただ私たちは、こうしたものを心に留めてよき信仰生活を送っているのですが、基本的に私たちは全く堕落をしていて、私たちの力では神を喜ばせることなど、まったく出来ないことを覚えておきたいと思います。

神様の平安と祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティー
佐々木博

2009年10月12日月曜日

今週の聖句

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。(エペソ2:19)

家族が崩壊し、人間関係が希薄になっている現在、改めて教会の存在を考えるのは大事なことです。特に感じるのは、社会も、教会も個人主義にはしり、家族意識がなくなっていることです。私たちは十字架の救いによって教会に神の家族として加えられたのです。

聖書ははじめから人は一人でいるのは良くないといわれて、一組の夫婦をエデンの園に置きました。

人はコミュニティを作り、交わりに生き、家族を作るように造られているのです。その中心はキリストです。

神の家族は自立した相互依存です。多くの肢体から一つの体が出来上がっているように、私たちはお互いを必要としているのです。

神の家族は神の国の住人です。それも聖徒たちと同じ神の住人です。

キリストの十字架に救われ、私たちの国籍は天にあります。天国人として生活すべきなのです。私たちの律法は二つしかありません。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(マタイ22:37,39)

これに加えてあなた方のあいだでは、みなに仕えるものになりなさい。(マタイ20:26)

毎日神を愛し、人を愛し、人に仕える生活を送ることができたら、その人の人生が変わります。人にはできないが神にはできるのです。

主の豊かな祝福をお祈りしています。

佐々木

2009年10月5日月曜日

今週の聖句

ハンナは答えていった。「いいえ、祭司様、わたくしは心に悩みのある女でございます。葡萄酒もお酒も飲んでおりません。わたしは、主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。(Ⅰサムエル1:15)

エルカナの妻ハンナの言葉です。彼女はエフライムの山地に住み、毎年夫エルカナともうひとりの妻ベニンナと3人でシロに上り、万軍の主を礼拝しいけにえをささげていた。ベニンナは子供が与えられていた。ハンナには子供は与えられていなかった。結婚した女性でこどものあたえられないことは大変な苦痛です。アブラハムの妻サライも同じ経験をしました。それはそれは切ないものでしょう。

またこうしたときいらいらさせることを行う人がいるものです。ベニンナです。負け犬に水をかけるような心無い行動をとったのでしょう。ハンナの心は食事を出来ないほどに痛み、悲しんだのです。ハンナの心は痛んでいました。彼女は主に祈って激しく泣いた。祭司エリから見ると酔って祈っているかと思えるほどの祈りであった。主の前にこころを注ぎ出していたのです。

ハンナは幸せでした。自分の心の一番奥にある悲しみ、痛み、苦しみを率直に主に語ることができました。飾った言葉で、美辞麗句で、もっともらしい祈りを祈るのではなく、目の前の問題に苦しみ、闘いながら、その苦しみを主にぶつけてゆく。そんな激しい祈りを私はしたいと思います。全身で苦しみ、悲しみを訴えてゆく、はしためが、あなたの御好意に与ることができますように。彼女の顔はもはや以前のようではなかった。主の解決が与えられました。

祈りとは本体このようなものです。本心から心注ぎ出す。こうしたいのりのできるのも唯主を信じているからのことです。

今週も祝福をお祈りしています。

佐々木博

2009年9月28日月曜日

今週の聖句

なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、命の危険を冒して死ぬばかりになったのです。(ピリピ2:30)

彼とはエパフロデトのことです。彼の仕事とは、ローマで獄中にいるパウロに、ピリピ教会の代表として、パウロに仕えることでした。そのためにパウロのもとに派遣されたのです。

しかし、彼は死ぬほどの病にかかったのですが、パウロにして死ぬほどの病気にかかりながら、自らを犠牲にしてパウロに仕えようとした、否、自分の使命に生きようとしたパフロデトの信仰を語らせたのです。

今の時代、安易に流れやすく、教会生活、奉仕の生活もイージーです。が、キリストの価値の絶大さのゆえに、命の危険をも恐れない信仰生活を送りたいと思います。

こんなことが言えるのも、自らが命の危険を冒す気がないことの証しでしょうか。

まだまだ、キリストの御言葉にすがって真剣に生きている兄弟姉妹のいることを私は知っています。そうしたよき兄弟、姉妹に学びたいとおもいます。

祝福が豊にありますように。

佐々木

2009年9月21日月曜日

今週の聖句

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみ言葉によるのです。(ロマ10:17)

現在は伝道することが難しい時代です。ある先生とお話をしていましたら日本人に対する伝道は本当に難しい、日本人はとても親切で、優秀だから、と言っていました。日本人牧師の話です。

私も同感です。むしろノンクリスチャンの親切な方が大勢います。こちらの要求以上のことをきちんとやってくれます。礼儀ただしく、きつい仕事でも嫌な仕事でも、いやそれ以上のことをしてくれるのです。これはみなさんが日々経験している世界だと思います。

そうじゃない、毎日上司に叱られ、同僚からはいじめられ、なんか良い働き口があれば変わりたいと考えている方もおられると思いますが。

福音によって救われる。主の御名を呼び求めるものは、誰でも救われるのです。救われることは、滅びからいのちに移ることですが、しかし、現状は何一つ変わらないのです。わたしも、周りも変わったと思えない。

それでは何が変わったのでしょうか。私たちの命が変わったのです。滅びに至るものが永遠の命、御霊の命を持つ身になったのです。

御霊の命を持つ者は生き方が変わります。人生の目的が変わります。生きることはキリストになるのです。

私たちは、私たちのうちに持っているこの御霊の存在を認識しましょう。福音は聞くことです。キリストの御言葉を聞くことです。

祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2009年9月14日月曜日

今週の聖句

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。(Ⅰコリント13:11)

わたしはこの聖句に、パウロの現実をきちんと理解し、受け入れる力の凄さを感じます。ごく普通のことです。子どもの時は子どもとして考え、行動したのです。よくても悪くてもそれが最善で、それしかできなかったのです。

パウロのこの言葉は自分の、その年齢にふさわしく、考え行動することを教えています。誰でも若い時の失敗や後から考えると火の出るような恥ずかしい事柄などを思い出します。なんと自分は若かったのだろう、何と分別がなかったのだろうと考えます。

パウロは私たちのそうした過ちを、子どものときは、子どもとして考え、子どもとして行動したのだ、今、大人に成長したとき分別を十分に働かせなさい、とさとしています。次の聖句は、有名な愛について書かれた言葉です。私たちがまだ不完全であったときにキリストに救われ、キリストの愛を知った後では、分別が違ってきます。愛を知ったからです。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(Ⅰコリント13:4~7)

祝福をお祈りしています。

佐々木

2009年9月7日月曜日

今週の聖句

福音にふさわしく生活しなさい。(ピリピ1:27)

ピリピはローマの植民都市でした。ローマから遠く離れていても彼らローマ市民はローマ風衣装を着、ラテン語を話し、行政官をラテン名で呼び、かたくななほどローマ人であることに固執しました。

パウロが、福音にふさわしく生活しなさいといったとき、この植民都市のローマ市民を意味していました。

彼らはローマにとらえられてその生活、衣装、言葉が変わったのです。全てはローマ風に。誇りを持ち、その責任と義務を果たしていたのです。

ピリピの人たちはローマに敗れて植民地とされました。そして、そこの市民とされたことに誇りを持って生きていたのです。

私たちの国籍は天にあります、私たちは逆にこの世のものでない価値に生きています。その国籍にふさわしく生活をしているでしょうか。誇りと責任と義務をもって天国から遠く離れていても、御国の市民としてよき証しの生活をしたいものです。

祝福をお祈りしています。

佐々木

2009年9月1日火曜日

今週の聖句

万軍の主はこう仰せられる。「あなたの現状をよく考えよ。」
(ハガイ書1:7)

当時のユダの現状は決して霊的に健康な状態ではありませんでした。BC5世紀ペルシャのクロス王は、バビロン捕囚民42360人をエホヤキン王の孫ゼルバベルと、大祭司ヨシュアの指揮下のもと解放しました。70年の捕囚を経て解放された彼らが神殿の再建に励むのですが残留民やサマリヤ人の妨害にあい神殿再建工事は中断し、16年の歳月が流れました。

この間に人々の意識は変化し、信仰にもとづく故国再建という希望は忘れられ、神殿にたいして無関心、無頓着、自分の生活が第一になりました。

今私たちの信仰生活はどうでしょうか。私たちの生活は厳しく、自分の人生に対する神からの希望がないかのような生き方をしてはいないでしょうか。私たちは今一度自分の現状をよく考える時です。吟味すべきです。私たちの信じる神様がどんなお方か聖書に帰る時です。

彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らが語っているうちに、私は聞く。(イザヤ65:24)
あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイ6:8)

生活に負け、信仰が見えない時にこそ、聖書を読み、聖書に書かれている神を知る時なのです。毎日デヴォーションしていますか。

歴史を支配する神からの祝福をお祈りしています。

佐々木

2009年8月23日日曜日

今週の聖句

ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。(Ⅱサムエル24:10)

ダビデの率直な信仰の現れです。不思議な事件です。ダビデが心動かされ人口調査を行いました。しかし、これが罪へのいざないだったのです。

人口調査はこれからの国の体制維持や外敵への備えを考えると、むしろ必要と思われた。しかし、ここに罪のいざないの不気味さがあります。

王の命令でヨアブと将校たちはイスラエル全土を調査します。ユダとイスラエルの兵士合わせて130万というのです。

しかし、ダビデは兵士を数えた後、良心の咎めを感じました。

ダビデが良心の咎めを感じたのは130万の兵士を持つ魅力とその頂点にたった自分自身に満足したときです。
得たいと思っていたものが手に入り満足する時、その満足したものが空しさとなり、自信は不安となります。

頼っていたものがいつの間にか、主ではなく目に見えるもの、自分自身に変わっていたからです。こんな経験ありませんか。

落ち込んでいる時、悲しんでいる時、神が遠く感じる時、幸いです。あなたの信仰が大きく成長する時です。

彼に信頼する者は、失望させられることがない。(ロマ9:33)

祝福をお祈りしています。

佐々木

2009年8月17日月曜日

今週の聖句

みことばを実行する人になりなさい。
御言葉を聞いて行わない人がいるなら、その人は自分の生れつきの顔を鏡で見る人のようです。自分から眺めて立ち去ると、すぐにそれがどのようなものであったか忘れてしまいます。
ところが完全な律法、すなわち自由な律法を一心にみつめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、ことを実行する人になります。こういう人はその行いによって祝福されます。
(ヤコブ書1:23,24,25)

クリスチャンがみ言葉を実行する人になるのはむずかしい問題です。

ここにその秘訣が書かれています。クリスチャンが聞くだけの人に終わってはいけません。聞くだけの人は、その人の生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に移った自分の姿をみても、立ち去るとそれがどのようなものであったかをすぐ忘れてしまいます。

しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は聞いて忘れる人でなく行う人です。

御言葉を聞くだけでなく行う人はじぶんの顔を鏡に映して一心にじーと見つめている人です。聞くだけで行わない人はさっとみて、ぱっと立ち去る人は自分を欺くのです。

ぱっと見て立ち去る人はじぶんの本当の姿をわすれて、ありもしない何か偉い者のように、現実の自分より優れた者であるかのように自分を欺くのです。

御言葉を聞いて行う人と言うのは、自分が何者であるかという自分の正体をずっと見続ける。高ぶることなく、いつも神のもとに謙遜に、自分はこの程度でしかない。自分という者は神様のお力にすがらなければ歩けない。そういう自分の低さ、弱さ、醜さを見続ける、このためにみ言葉を聞くだけでなく行い続けることが大切なのです。

言い換えればみ言葉を受け入れ信じることなのです。

祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2009年8月10日月曜日

今日の聖句

万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も、主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ書1:16)

全存在の意味と目的が書かれています。そう、すべてはイエス・キリストによって造られ、イエス・キリストのために存在するのです。全ては神から始まるのです。

私たちはどこから出発するのでしょうか。誤った出発点は「自分」からスタートすることです。

わたしは何になりたいのか。私は何をなすべきか。私の目標は、私の願いは、私の将来は。すべてあやまちは私からスタートすることにあるのです。わたしの成功を願い、わたしの幸福を求めるのです。

聖書はイエス・キリストが万物の目的であり、また原因としてふさわしいお方であると書いています。(へブル2:10)

わたしたちが真に安息を得、幸福になるのは神の意図する人に変えられ、神の意図した人生を送ることです。その中心はイエス・キリストです。

わたしたちが存在し、生かされているのは神がそのように意図し、そのように生きるのをゆるされているからです。神の憐れみが豊かであることを感謝いたします。

神の祝福をお祈りいたします。

佐々木 博

8月16日は1周年記念感謝礼拝が午前11時からあります。お祈りください。

2009年8月3日月曜日

今週の聖句

わたしにとっては、生きることはキリストです。(ピリピ1:21)

わたしはキリストととも十字架につけれました。もはやわたしが生きているのではなくキリストがわたしのうちに生きておられるのです。(Iコリント2:26)

パウロにとって生きることはキリストです。他に選択肢などありませんでした。ただひたすらキリストに生き、キリストを宣べつたえたのです。単純に生きることは大変難しいことです。信仰も同じく虚飾をなくし、背伸びをせずに、与えられられた仕事を一生けん働くことが、「生きることはキリスト」なのです。

今の時代は出来るだけ複雑に虚飾をかざり、いかに自分をうまくいかすか、自己主張の中に生きています。そんな風潮の中で「生きることはキリスト」とシンプルに言えたらどんなによいでしょう。

キリストが共にいてくださいます。
祝福をお祈りしています。
佐々木 博

2009年7月27日月曜日

今週の聖句

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにおられます。(Ⅰヨハネ4:15)

神はわたしたちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにあり、神もわたしたちのうちにおられることがわかります。(Ⅰヨハネ4:13)

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それはこの計り知れない力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかにされるためです。(Ⅱ4:7)

わたしたちがこの世のものでないことを理解するのは、イェスを神の御子、救い主と告白したからです。

御子を救い主として告白した時から、私たちは御霊に導かれて、神の子どもとして、新しいキリストの命、復活のいのちに生かされているのです。私たちは御霊によって「アバ父よ。」と呼ぶのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを益に働かせて下さることを知っています。

ですからこの世のもの、肉のよく、目のよく、暮らし向きの自慢です。私たちはこうしたものから解放されて、うちなる御霊によって歩んでゆくのです。

暑さが厳しいです。ご自愛ください。

祝福をお祈りしています。
佐々木

2009年7月20日月曜日

今週の聖句

そのころ、イスラエルに王がなくめいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。(士司記23:24)

ヨシュアが死んで後、王政が確立されるまでの間に活躍したカリスマ的指導者「士師」の活動を記したのが士師記です。まだヨシュアの指導力が残っていた間は良かったのですが偶像崇拝がすすみ、国が乱れてくるとイスラエルに王がなくめいめい自分の目に正しいと見えることを行っていました。

国を指導すべき真のリーダーを失ったときの民の混乱を現わしています。各自が自分の目に正しいと見えることを行っていた。国のありさま、混乱が目に見えるようです。

わたしたちも王なるイエスを心のうちに戴いていないと、同じように自分の目に正しいことを行っています。その結果は以下のとおりです。

かれらは、あらゆる不義とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと、悪だくみでいっぱいになった者、陰口を言うもの、そしるもの、人を人と思わぬ者、高ぶるもの、大言壮語するもの、悪事をたくらむ者、親に逆らうもの、わきまえないもの、約束を破るもの、情け知らずのもの、慈愛のないもの。(ロマ1:29~31)

厳しい暑さが続いています。祝福をお祈りしています。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木博

2009年7月13日月曜日

幕張本郷クリスチャンコミュニティ(MHCC)1周年記念聖会のお知らせ

*MHCCの1周年記念は無事終了しました。お祈り感謝します。よき学び、交わりが与えられました。引き続きお祈りください。弱い小さな群れです。お祈りください。

学びの内容
幕張本郷クリスチャンコミュニティが目指すもの
わたしたちはどんな教会ですか・存在の意味・行動指針
アクションプログラム等を学びました。


幕張本郷クリスチャンコミュニティ1周年記念聖会
2009年8/16(日)午前11:00~3:30 入場無料
幕張本郷クリスチャンコミュニティー(MHCC)
千葉県千葉市花見川区幕張本郷3-5-30
地図はこちら (JR幕張本郷駅から徒歩10分)

<スケジュール>
11:00~12:00 1周年記念感謝礼拝
12:00~1:00 愛鬖会(昼食会)
1:00~3:30 ビジョンの分かち合い
幕張本郷クリスチャンコミュニティ(MHCC)について、「どんな教会なの」「なぜそのような教会なの」「教会が大切にしたいもの」などをテーマに学びの時を持ちます。

<お問い合わせ>
幕張本郷クリスチャンコミュニティー(MHCC)
千葉県千葉市花見川区幕張本郷3-5-30
電話: 043-275-5254

今週の聖句

さて、兄弟たち、私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたい。(ピリピ1:12)

パウロの身に起こったこととは、ローマ市民の権利を用いて不当逮捕に対し上訴権を使って皇帝の裁判を受けようとロ-マに囚人として送られたことです。

パウロは捕らわれの身でした。この不幸な出来事が福音の前進に役にたったというのです。使徒の働きを読んでいますと実にさまざまな出来事が記されています。

しかし、福音の力はむしろ妨害が起こるところから広がっています。

パウロの不当逮捕はユダヤ人たちの誤解によるものですが、ローマ皇帝への上訴は彼の必死の生き方なのです。パウロは自分の正当性を主張しました。その結果がローマへの道でした。

神様は不思議な形でローマ伝道の道を開きました。神様の救いの計画の不思議さに驚きます。いまあなたはどんな状況ですか。

祝福をお祈りいたします。

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木博

2009年7月6日月曜日

今週の聖句

私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり・・・(ピリピ1:9)

ピリピ教会とパウロとの関係は大変良好でした。この手紙が書かれた時も、パウロはローマで捕らわれの身でしたが、この囚人パウロに物心両面の援助だけでなく、エパフロデトを送ってパウロに仕えさせたのです。いかにピリピの人々がパウロを愛していたがわかるでしょう。その愛に富んだピリピの人にさらに愛が豊かになるように祈っているのです。

愛の人には愛がわかるのです。信仰の人には信仰がわかるのです。祈りの人には祈りがわかるのです。愛のピリピ教会にさらに愛が豊かになるようにと祈っているのです。

それは知識において、識別力においてです。それも豊かにです。豊かとは満たされてあふれ出る状態を言います。

愛は対象の必要を感じて助けてしまうのです。助けるとさらに必要を知るのです。

あらゆる識別力によってその必要が吟味されます。愛する対象に真にプラスになるのか絶えず吟味するのです。なぜならキリストの愛がそのように教えています。

祝福がありますように。

佐々木

2009年6月29日月曜日

今週の聖句

あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。(ピリピ1:29)

キリストを信じる者の人生は苦しみをも賜わるのです。苦しみを賜わったパウロの人生こそ、イエスを信じる人生でした。

私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(Ⅱコリント11:23-27)

パウロの裏側の姿が描かれています。この人生は彼の望んだものではありませんでした。しかし、彼の人生はダマスコで復活の主に出会って全くかえられたのです。

私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリピ3:5-6)

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3:8)

祝福と恵が豊かにありますように。

佐々木

2009年6月22日月曜日

今週の聖句

主に心から喜び楽しんで仕えようとしないので、あなたは、飢えて渇き裸となって、あらゆるものに欠乏する。(申命記28:48)

申命記28章は神の祝福と呪いが列挙されています。旧約の神様は、主の御声によく従い、主の命令を守り行うなら祝福され、聞き従わず、守り行わないなら呪われるのです。

その呪いの一つが48節の言葉です。

わたしたちが教会生活を送りながら、経済的に苦しい、厳しい生活を送っているなら、あなたの奉仕が貧しい結果だと教えています。

私たちの奉仕の姿勢が、主の呪いの一つになるというのです。本来奉仕は喜びと謙遜の現れです。

私のようなものが救われた。私のようなものを用いてくださった。ありがたいと謙遜と喜びからスタートするものです。しかしいつの間にか喜ぶことがなく、まして楽しむことなどできなくなるのです。

奉仕は不満の種になり、さばきの場となりうるのです。教会の顔と家に帰っての顔が違ってしまいます。

私は礼拝後兄弟姉妹が和気藹藹と交わりながら伝道のために、教会学校のために準備をする。そうした奉仕に参加をし光景を見るのが好きです。

現在、経済はとても苦しく、時間もなく教会の奉仕などとんでもない。できませんといった方々が多いと思います。

むしろ礼拝を守るだけで精いっぱい。生活第一、家庭第一、奉仕は二の次、三の次といったところでしょう。

あなたの経済の貧しさを主の呪いと聖書は教えています。それは奉仕の姿勢、信仰の姿勢にありとおしえています。もちろんこれは旧約的表現です。

新約も同じことを教えています。

まず神の国とその義を第一に求めなさい(マタイ6:33)と教えています。そうすれば私たちの必要は満たされるのです。

どうですか思い切って、この厳しい世の中、聖書の教えに従って喜んで主に仕えませんか。現状が変わります。豊かになります。

今週も主が共にいますように。

佐々木 博

2009年6月15日月曜日

今週の聖句

あなたの神、主を心に据えなさい。(申命記8:18)

面白い表現です。

申命記8章は荒野での40年の全行程を覚えていなければならないと教えています。

あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうかあなたの心の内にあるものを知るためであった。

わたしたちの心のうちとは私たちが食べて満ちたり、立派な家を建てて住み、私たちの牛や羊が増え、金銀が増し、私たちの所有物がみな増し加わると私たちの心が高ぶり、私たちの神、主を忘れてしまうのです。人の変わらない姿です。こうした意味で荒野での40年は意味がありました。

荒野での試みは、あなたがたが心のうちで「この私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ。」といわないように気をつけることなのです。これも私たちがいいそうな言葉です。しかし聖書信仰は絶対他力、神の力によるものなのです。

荒野での40年の奇跡を見れば如何に自分たちの力が無力なものであるかを知るはずです。奴隷の家エジプトから連れ出し、堅い岩から、水を流れ出し、マナを降らせ、燃える蛇やサソリのいる荒野を通らせたのは神の力なのです。

これはほかでもないあなたがたを幸せにするためなのです。

だからあなたの神、主を心の中心に置き、揺らぐことなくこの神に信頼することが祝福の基なのです。

この厳しい不況の中、まったく自分を捨て、神に信頼する者の祝福を経験しませんか。あなたの荒野を導く神を心に据えましょう。

祝福をお祈りします。

佐々木 博

2009年6月8日月曜日

今週の聖句

神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因である方として、ふさわしいことであったのです。(へブル2:10)

私たちの存在の原因と救われた目的がはっきりと書かれています。私たちの存在の原因はイエスです。また私たちの存在の目的もイエス様です。
あなたはある理由のために存在しています。あなたは細かく精密な計画の一部を担っている存在です。あなたは尊い存在であり、しかもこの世に二つとないデザインで造られ、神の目にはかけがえのない女性、男性と呼ばれます。

あなたが今の姿でいるのは理由があります。

私たちの神に失敗はありません。神はあなたを母の胎内で育まれました。あなたは神の望まれるとおりの姿をしているのです。
あなたに両親を選ばれたのは神です。どう感じようとも。あなたは神が望まれたとおりにデザインされ、主の証印を押されているのです。
あなたの受けた傷は決して軽くありませんでした。しかし、あなたがその傷に苦しむ度に神も涙を流しておられました。やがて、それはあなたの心のかてとなり、あなたは成長して神に似た者となりました。
あなたがあなたであるのには理由があります。あなたは主の鞭によって整えられてきました。あなたはありのままで愛されています。

そのような神がおられるのです。

~~ラッセル・ケルファー~~

2009年6月1日月曜日

今週の聖句

神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出す。(ヨブ36:15)

人生の中で多くの悩み、苦しみに出会います。聖書は励ましのメッセージに満ちています。
 
そればかりか、艱難さえ喜んでいます。それは艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。(ロマ5:3)

あなたがたのあった試練はみな人のしらないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道をも備えてくださいます。(Ⅰコリント10:13)

わたしは悩む者、貧しいものです。神よわたしのところに急いでください。あなたは私を救う方、主よ遅れないでください。(詩篇70:5)
 
皆さんはそれぞれ聖書から沢山の慰めと、励ましをいただいていることとと思います。

しかし、聖書はその悩みそのものの中から、神の助けがあることを教えています。単に単眼的に信仰を考えるのではなく、苦しみもがくことが神の助けそのものなのです。
 
平安が豊かにありますように。

佐々木 博 

2009年5月25日月曜日

今週の聖句

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んで下さったほどの人を、食べ物のことで、滅ぼさないでください。ロマ14:15
 
14章は信仰の強いものが、弱い者を軽んじることなく、つまずかすこともなく、かえって平和にかれらの徳を建てるように勧めています。

食物のような些細な事柄のゆえに兄弟の救いを軽んじるなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。

教会の中に生じる教会の不和、あるいはいさかいはとても小さな事柄が多いものです。それ自体は大したことではないのですが、人それぞれが人生を背負っています。ですから、日のことや食べ物のことがその人にとっては大事な問題、こだわりなのです。
 
むしろこれらを批難して信仰における兄弟を悲しめるようなことをしているなら、その人には愛がないと言っているのです。

あなたが非難し、さばいているその人は、実はキリストが代わりに死んで下さったほどに尊い、かけがいのない、大事な魂なのです。その魂をたべもののことで、つまづかせることは残念です。

わたしなども若い時小さな、ささいな事柄を許せなくて声高に叫んでいたころは恥ずかしく思い出します。

平安がありますように。

佐々木

2009年5月18日月曜日

今週の聖句

しかし、私にとっては、神の近くにいることが幸せなのです。私は、神なる主を私の避けどころとし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。詩篇73:28

アサフはダビデ王時代の指導的聖歌隊指揮者の一人でした。詩篇73篇から83篇までが彼の作といわれています。
 
独特の視点から詠われています。それは、この世においては神の子たちが不当な扱い受け、悪人が栄えるということです。神は公平かという視点です。

いつの世でも信仰者を悩ませ、神の存在を疑わせる問題です。代表的な例がヨブです。彼は義人ヨブといわれれるほどに、神の前に正しい人でした。
 
しかし、神は彼を試みに渡され、彼は身に覚えのない大きな試練に会うのです。ついには自分の生まれた日を呪うほどになるのですが、最後は神の偉大さにふれ、その存在の確かさを悟ったとき、彼の人生の苦悩は全て解決したのです。
 
この73編もそうです。悪者たちが栄えています。

彼らの死には苦痛がなく彼らのからだは、脂ぎっているからだ。人々が苦労する時、彼らはそうではなく、他の人のように打たれない。それゆえ高慢は彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らを覆っている。
 
さらにアサフは詠います。

彼らは言う。どうして神を知ろうか。いと高き方に知識があろうか。みよ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。
 
現実の世の中はこのようなのものではないでしょうか。しかしアサフは、

私は聖所に入り、ついに彼らの最後を悟った。まことに、あなたは彼らをすべりやすいとろに置き、彼らを滅びに突き落とされます。
 
神を信じない者の人生の土台は滑りやすいところにあるというのです。これは、まことにこの世の人生の危うさをものの見事に表現しています。
 
キリストを土台とし、私にとっては神の近くにいることが幸せなのです、といいうる人生こそが、幸いな人生なのです。
 
祝福がありますように。

佐々木

2009年5月11日月曜日

今週の聖句

安息の日には、あなたはどの住まいのどこででも火を焚いてはならない。出エジプト35:3
 
安息日の労働を禁じた言葉です。しかし、3度の食事の煮炊きは例外として暗黙のうちに女性が働くことを前提としてはいないでしょうか。
 
牧会ジャーナルという旬刊誌があります。その’08年冬号に藤原導夫先生の書いた一文があります。

その中で女性の視点から聖書を読み直す機会が与えられたエピソードが書かれています。それはこの個所から、安息日は女性の務めである、火を焚いて食事の準備をすることをも禁じ、女性にもまことの安息を与えて下さる。神さまは何と優しいお方だと喜んだ信徒の証が載っていました。
 
聖書の世界は男性優位の社会です。階級制度の社会です。奴隷制度の世界です。

しかし、その最も弱い奴隷に対してすら神様の目は漏れていないのです。

不思議なことに奴隷を保護するような定めがあるのです。自分の男奴隷、あるいは女奴隷を杖で打ち、その場で死なせた場合、その者は必ず復讐されなければならない。(出エジ21:20)そのほか奴隷の取扱いに関する細かい定めがあるのです。
 
聖書の奥深さは、その時々に私たちを慰め、励まして下さることです。その恵みの世界は男女、階級、制度を超えて働いています。声高に差別反対、階級打破を叫ばなくても、神の愛を知り、恵を理解するならおのずから、奴隷以上のもの、性別以上のもの、すなわち愛する兄弟として、肉においても、霊にあっても、そうではありませんか。(ピレモン16)アーメン
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなた方の上にありますように。
 
祝福をお祈りしています。
 
佐々木 博

2009年4月27日月曜日

今週の聖句

御手が私とともにあり、・・・(歴代誌4:10)
 
有名なヤベツの祈りの一節です。ヤベツは不思議な人物です。士師の時代にユダ族に生れ、その出生は大変不幸なものであったようです。彼の母親が「悲しみのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけたと書かれています。
 
ヤベツは生まれながらにハンデを背負っていました。その彼の人生を変えたのがヤベツの祈りです。イスラエルの神を信じました。このお方こそ自分の人生を変えるのだと信じたのです。祝福を求め、地境を広げていただきました。
 
ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられました。彼は大きな祝福をいただき、彼の働きは急拡大しました。彼の手の届く領域を超えたのです。地境が広がるとき勢いがあります。何でもできると錯覚します。しかし、自分の能力を超えた世界では無力さを感じます。こうしたとき私たちは神の御手を求めるのではないでしょうか。神の御手とは私たちの人生における神の力と臨在を経験することです。自分の信仰、自分の祈り、自分の奉仕と言っている段階では御手を経験することはできません。

しかし、自分に失望し、自分の無力さを感じたとき、私たちは御手を必要としているのです。わたしたちはただ主に信頼して生きるようにと召されているのです。

祝福をお祈りしています。
 
佐々木

2009年4月20日月曜日

今週の聖句

そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで許すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などどはわたしはいいません。七度を七十倍するまでと言います。」マタイ18:22
 
罪の誘惑は必ず来るものです。教会と言えども世の例外ではありません。むしろ誘惑に弱い人々の集まりです。その弱さゆえに救われたのですが、またその弱さゆえに多くの罪にさらされています。ですから、賢く解決の仕方だけは、この世のものとは違ったものでなければなりません。
 
ペテロが尋ねているのは、兄弟が一般的な罪を犯した場合ではなく、私に対して罪を犯した場合です。当事者が私ですから、腹立ちも激しく、怒りも大きいのです。なかなかゆるすことなどできません。どの程度ゆるすべきなのでしょうか。
 
ペテロは思い切って七度まででしょうかと尋ねます。当時の教えからいえば三度まです。ですからペテロの七度までというのは考えられないほど寛大なものでした。しかし、イエス様のお答は七度までなどとはいいません。七度を七十倍するまでといわれます。言い換えればゆるすこととは無限にゆるし続けるけことだけが本当のゆるしなのです。
 
「クリスチャンであるとは、ゆるしがたい人々をゆるすことである。神があなたがたの中にある、赦しがたいものをゆるして下さったからである」とC・Sルイスはいっています。
 
平安をおいのりしています。
 
佐々木 博

2009年4月13日月曜日

今週の聖句

そこでふたりは話し合った。「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」ルカ24:32

イエス・キリストの大事件、それはエルサレムでイエスが十字架にかかって死んでくださったことであり、そのイエス様が蘇ってくださったことです。
 
復活の主がこの二人の弟子に現われて「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださった時、私たちの心は燃えていたではないか。」と語りあった。

イエス様が聖書を説明して下さることによって私たちの心は熱くなり燃え立ちました。
 
モーセとすべての預言者から始めて聖書全体にわたって、「メシヤはこういう苦しみを受けて栄光に入るべきだ」ということをイエス様が説明してくださいました。

それは、心が燃えるという、聖書を読む者の心のうちに変化を起こします。

さらに45節、そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われた。

「心を開いた」とまでいわれています。

聖書全体がメシアの苦難と栄光を語っているというキリスト教独特の旧約聖書の読み方をするためには普通の読み方ではだめなのです。

心が燃やされたり、心が開かれなければ、わたしたちに内的変化が起きなければ無理なのです。

心躍り、目が開かれて旧約を見る時、イエス・キリストの苦難と栄光を理解し、信じることができるのです。
 
祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2009年4月6日月曜日

今週の聖句

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのである。ヨハネ13:15
 
今日から受難週に入ります。多くの教会で早天祈祷会がもたれ、今週の金曜日には受難日礼拝が持たれることでしょう。

この聖句はイエス様が十字架にかかれられる前の日、過ぎ越しの祭り前の晩に弟子たちと夕食を共にされ、その席上でイエス様が弟子たちの足を洗われた記事です。弟子たちが先生とも主とも呼んでいたイエス様が弟子達の足を洗いました。だからあなたがたも同じようにしなさい。イエス様の命令です。
 
このことは謙遜と奉仕の姿の手本として何も言うことができません。そのとおりです。しかし、イエス様がここで言われていることは、わたしがあなたがたにしたことを、あなたがたもするようにということではなく、「わたしがあなたがたにしたとおりに」、同じようにあなたがたもすることなのです。イエス様がしたことはただ弟子たちの足を洗ってふいただけです。表面的なことではなくイエス様が弟子たちの足を洗った本当のお気持ちを理解してわたしたちが行っていくことなのです。
 
その第一は主であり教師であるイエス様が奴隷になって足を洗われたことです。 

同じ奴隷でもへブル人奴隷のする仕事ではありませんでした。それほどに人の足を洗うことはいやしい仕事でした。それほどにイエス様は謙遜でした。

私たちは自らが奴隷になって他者の足を洗うことが求められています。いつの時代でも、人に仕えることはなかなか難しいことです。しかしイエス様が手本を示されたのでわたしたちもそのようにすべきなのです。
 
この奴隷となる、それはイエス様の愛の表現でもありました。13:1に世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。この残るところなく示された愛の姿が弟子の足を洗う行為でした。愛のゆえに弟子の足を洗われたのです。

その極みが十字架の死でした。「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大いなる愛はない。」とイエス様は言われました。この洗足の原理は二つです。仕えることと愛することです。また私たちが世に証しをする姿でもあります。
 
祝福をお祈りしています。
 
佐々木 博

2009年3月30日月曜日

今週の聖句

しかし、神は知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。Ⅰコリント1:27
 
救いの不可思議を感じます。世的な基準からいえば知恵ある者、強い者が歓迎されます。

教会は何となく、気弱な者、意気地のないもの、何か人生に悩みを抱えている人たち、貧しい人たち、うまく生きていけない人たち、体の病んだ人の集まるところといったイメージがあります。
 
こうしたイメージを抱えて忸怩たる思いを持って教会に通っている人もいることでしょう。福音は自信満々の人、自力で何でもできると考えている人、世の出世競争に勝ち残る自信家にはなんの力も提供できません。
 
実際にこれらの人は世の中の1%もいないのではないでしょうか。こうした人たちは勝つ自信がゆらぐ時が来ないかぎりはこの出世競争が楽しみなのです。

生涯一度も挫折のない人生はないのです。
 
年老いて孤独をかみしめる時が来るのです。介護を必要となる時が来るのです。現在でいえば職を失う不安、健康を失う不安、離婚の危機、親子関係、ありとあらゆる危機的な状況に私たちはおかれています。

イエス様の時代も同じです。イエス様をとりまく多くの群衆は飼うもののいない羊のようでした。今と状況は変わりません。ことの本質は今も昔も変わりはないのです。
 
こうした群衆に心の貧しいものは幸いだと語りかけたのです。悲しむ者は幸いだと言われたのです。

自分の人生の中に神の存在を認め、自分の愚かさ、弱さを認め、神の前に正しい人生を生きてゆくことが求められています。そう、教会はこうした人たちのためにいつも開かれ、福音が語られています。
 
祝福をお祈りします。

佐々木 博

2009年3月24日火曜日

今週の聖句

ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて、わたしが苦しむことがないように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。Ⅰ歴代誌4:10

有名なヤベツの祈りです。今から7,8年前にちょっとしたブームになったものです。私は毎日家内とこの祈りをデヴォーションの後夫婦二人で唱和します。昨日は二つの葬儀を同時並行で行っていました。同じ斎場、同じ火葬時間でした。珍しいケースです。一件の葬儀に市役所から書類上のミスがみつかったので、火葬の許可を取り消します、というものでした。二つの葬儀にスタッフが張り付いていますので、人数的に余裕がありません。また時間的に難しい状況でした。わたしが動くしかないのです。

市役所は申請人に問題がある、申請人を正規なものにしなければ許可を下ろすことは出来ない、この一点張りでした。しかし、20日には火葬許可証は下りているのです。彼等のミスは受付け時にありました。このところをせめてなんとかしてくださいと談判をしました。市役所の方も努力してくださり結果は無事に葬儀を終えることができました。

火葬の中止の電話には驚きました。しかし落ち着いて考えますと私どもに何一つミスはないのです。火葬許可書も20日の時点で正式のものをいただいていたのですから。今回は私の信仰をためされました。主に信頼すること、御言葉に頼ることを実感しました。

御手がわたしとともにあり、災いから遠ざけてください。

アーメン。平安をお祈りいたします。
 
佐々木

2009年3月16日月曜日

今週の聖句

「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。」マタイ9:11、12
 
マタイの召命のあと、マタイの家で取税人や罪人たちおおぜいと、イエス様とイエスの弟子たちとがいっしょに食卓についていた。これを見たパリサイ人がイエスの弟子たちに言った言葉です。
 
当時の宗教家、パリサイ人や律法学者の目から見るならば、取税人、罪人と席を同じくすることは、自ら汚れることを意味していました。
食卓を囲むことは和解を意味していましたし、彼らの友人あるいは味方、または彼らの世界に身を置くことでした。
 
イエス様について当時の人々は、バプテスマのヨハネ、エリヤ、またはエレミヤまたは預言者の一人だと考えていました。ですからイエス様の行動はこうした自らの立場をなくすようなものでパリサイ派の人たちには理解できないものでした。
 
パリサイ派の人々の疑問は当然のことでした。それに対してイエス様の答えは不思議なものでした。医者を必要とするのは丈夫なものではなく病人です。医者は感染症の患者でも、どんな種類の病人でも病人のそばに立ちます。患者のそばで話をし、必要を聞きます。イエス様は医者です。同じルカの4:23で「医者よ、自分を治せ。」ということわざをひかれ、ご自分が医者であることを自覚していました。パリサイ派の人たちのように自分の聖さのみを求めて交わりを拒否するような生き方ではなく、病める人の必要に気が付き、そうした人々とともにいることが大事なんだといわれているのです。
 
平安をお祈りしています。
 
佐々木 博

2009年3月9日月曜日

今週の聖句

わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかなところから呼び出していった。あなたはわたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。イザヤ41:9
 
神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で、聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:4)パウロもイザヤも同じことをいっています。私たちの救いは、神のはかり知れないご計画のうちにあるのです。

ただ有難いとしかいいようがありません。神の救いに与るとはただこういうことなんだと信じるほかはありません。
 
私は20歳で洗礼を受けましたが、生涯信仰を持ち続ける自信はありませんでした。洗礼準備会の終わりに、毎回先生から生涯信仰生活を送る自信のない者は洗礼を受けなくともよいといわれたものです。毎回溜息でした。
 
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなた方を選びあなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)この聖書の言葉でわたしは安心をして洗礼を受けました。いままたわたしはあなたを選んで、捨てなかった。

神様が拾ってくださっていなければとっくに信仰などなかったことでしょう。神様の憐れみをただ有難いと思います。
 
今週も平安でありますように

佐々木 博

2009年3月2日月曜日

今週の聖句

私の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4

高価で尊い存在とは

1.私たちは神に似せて作られました。知・情・意を持つものとして造られました。

神は「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。」神はこのように、人をご自身のかたちに創造されました(創世記1:27)。

2.かけがいのない存在として造られました。

世界で唯ひとりの存在です。

世界でただ一つの花。スマップが歌って200万枚売れました。

この歌は「No.1 にならなくてもいい、もともと特別なOnly one」で始まり、「小さい花や大きな花 一つとして同じものはないから No.1 にならなくてもいい もともと特別なOnly one」で終わります。私たちはみな一人一人です。一つ一つの花と同じく「もともと特別なOnly one」なのです。
   
現代の社会は競争社会です。進化の社会です。ここには相対的な価値しかありません。結果がすべての社会です。しかしわたしたちは、神様からひとりひとりがかけがいのない存在として造られ、愛されているのです。

3.人生のおもな目的は何であるか。

人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。(ウエストミンスター 問1)

神の栄光をあらわすことは、神様を礼拝することです。

人は体と心と霊の3つから成り立っています。この霊的な部分は眞の神に出会うまで満足しないのです。

わたしたちは霊的な存在として造られ生かされています。だから尊いのです。
 
主の豊かな祝福をお祈りします。
 
佐々木 博
047-486-1981

2009年2月23日月曜日

今週の聖句

私は、悩む者、貧しいものです。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。詩篇70:5
 
私は悩みます。苦しみます。信仰が与えられ、あたらしい人生を歩みはじめました。しかし、自分が愚かで、弱く、神の御心に従うことのできない存在に気が付きます、今までにない悩みです。信仰から来る質の違う悩みです。

これはどんなに長い信仰生活を送っていても、形を変え、質を変え生涯ついてきます。
 
しかし、これが信仰のヤスリです。私たちの思いのとがった部分は削りとられなければなりません。

この悩みによって自分の霊的な貧しさに気が付き、信仰が深められるのです。霊的成長を促す神の愛です。
 
この悩みから救ってくださるのは神ご自身です。

あなたは、私の助け、私を救う方です。主よ遅れないでください。私の悩みは深いのですから。
 
祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2009年2月16日月曜日

今週の聖句

きょう、もしわたしの御声を聞くならば、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のようにあなたの心をかたくなにしてはならない。(詩篇95:8)
 
詩篇95編は私たちがどのような態度で礼拝を守るかを教える個所です。この後、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながらわたしをこころみ、わたしをためした、と続きます。
 
これはきょう神の御声を聞く時、私たちのとるべき態度を教えています。メリバとマサでの事とは何でしょうか。彼らはモーセに率いられて紅海を渡り、マラでは苦い水を甘い水に変えられ、天からのマナを食べ、うずらを飽きるほどに食べました。すべてが「わたしのわざ」神様の恵みです。
 
こうした奇跡を体験したイスラエル人の全会集は神の命によりシンの荒野を旅たち、旅を重ねてレフィディムに宿営しました。

しかし、そこには民の飲む水がなかったのです。

それで民はモーセにつぶやき「なぜわたしたちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」と言って私をこころみ、わたしをためした。これはモーセに対する抗議ではなく神に対する不信仰のあらわれでした。
 
神をこころみたのです。本来であるならここで、今までの恵みをおぼえて主に信頼し祈るべきでした。

しかしそれをせず、不満をモーセ、否神にぶつけたのです。これがメリバ、マサの事件です。
 
神の御声を聞く時心をかたくなにするな、これは神の警告です。わたしたちは礼拝でデヴォ―ションで神の御声を聞く時、私たちの応答の責任を問うているのです。心をかたくなするとは、聞いた言葉を無視し、聞き従わず、応答しないことです。わたしたち御声を聞いていますか。
 
佐々木 博

2009年2月11日水曜日

今週の聖句

しかし、必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはそのよいほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。ルカ10:43
 
この対照的な姉妹は私たちに奉仕の本質を教えくれます。私は先週めちゃめちゃに忙しい1週間でした。葬儀が2件入りました。それも家内の姉が土曜日に亡くなりました。わたしの思いはこの二つの葬儀に集中してしまいました。また今週も10日火葬、11日記念会と続きます。忙しいことは大変喜ばしいことですが、たくさんの思い煩いを起こさせるものです。それなりに毎日デヴォ―ションの時を持っていたのですが十分ではなかったことに気がつかされました。それはマリヤのように聞くことをしなかったのです。
 
マルタとマリヤの違いはイエス様中心か、自分中心かの違いではないでしょうか。二人ともイエス様を愛し、尊敬しどちらも精いっぱいイエス様をもてなす気持ちがあったことだと思います。そのもてなし方が違いました。イエス様はマルタを批判していません。否マルタは自分の気持ちの赴くままに肝心の大事なことを忘れてしまって心乱れ、思い煩ってしまいました。
 
大事なことは主の足元で主の御声を聞くことです。御言葉のことを差し置いてマルタはイエス様の接待に心が奪われました。

わたしに与えられた仕事は牧師と葬儀業です。私にとってどちらが上とも下とも考えたことはありません。ともに神様から与えられた主の仕事です。わたしが間違ったのは、その仕事の忙しさにまぎれ、次々にいろいろなことを考え思い煩ってしまったことでした。シンプルに仕事をきちんと果たして、主の御前でイエス様の御声を聞く、この大事なことがおろそかになったのです。順序が逆になりました。御声を聞いて仕事に励むべきでした。
 
その結果、心が落ち着きませんでした。あれやこれや集中出来ませんでした。こんな経験ありませんか。どんなに時間がなくてもひと時、主の前に聖書を読み、主の前にたち、御声を聞く、新しく力と知恵が与えられます。
 
お祈りしています。

佐々木 博

2009年2月2日月曜日

今週の聖句

塩は、ききめのあるものです。しかし、塩に塩気がなくなったら何によって塩気をとりもどせましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩気を保ちなさい。そして和合しなさい。(マルコ9:50)
 
わたしたちが和合する秘訣は、お互いに自分自身の中に塩気を保ちなさいと聖書は教えます。塩が塩である第一の理由はその効き目です。多すぎず、少なすぎず、隠し味としてその存在理由があるのです。
 
塩はそれ自身で味を持っていますが、塩は自分を隠して砂糖を醤油の味を引き立てます。砂糖はより甘くなるのです。
 
そして腐敗を防止します。自身の存在を隠して腐敗を防止します。塩は自分の味をしっかり主張しますが、他の味を引き立てる上で欠かすこのできないものです。
 
流す涙に、汗に、血にも塩が含まれています。塩はいのちです。海は塩に満ちています。全てのもの包み、受け入れ生かします。しかし海は海です。
 
この塩気を私たちは保っているとき生きているのです。他者を生かす存在として生きているのです。

祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2009年1月26日月曜日

今週の聖句

主よ、われらの神よ。あなたは、栄光と誉と力とを受けるにふさわしい方です。あなたは、万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。(黙示録4:11)
 
この現代の厳しい状況の中で、私たちの存在の確かさを教えてくれるものは聖書であり、信仰です。聖書はイエス・キリストが救い主だとはっきり宣言しています。

私たちは自分の知恵でキリストを主だと考え、信じて救われたと思っています。

しかし聖書は知恵を与えてイエスが主だと信じる信仰が与えられるのだと教えています。

聖書はあなたがたに知恵を与えて、イエス・キリストに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。(Ⅱテモテ3:16)

あなたがたが私を選んではなく、私があなたがたを選んだのです。(ヨハネ15:16)
 
私たちは毎週日曜日礼拝をささげています。自分の忙しい時間をさいて教会に出かけ、礼拝に出席します。なぜそうするのでしょうか。自分の信じる神様が栄光と誉と力を受けるのにふさわしいお方だと信じているからです。また私たちはこの神を礼拝するために創造され、存在しているのです。
 
それゆえに礼拝を守ることは大切なことです。礼拝の中に私たちの存在と目的があるのです。毎日神様と交わりをし、日曜日の礼拝を楽しみにしましょう。

生きる目的を知ることほど元気の出るものはありません。
 
祝福をお祈りしています。

佐々木 博

2009年1月19日月曜日

集会場所のご案内






JR幕張本郷駅から徒歩10分
千葉市花見川区幕張本郷3-5-30
電話: 043-275-5254



みなさんを心から歓迎いたします。

<集会のご案内>
日曜日午後3時~
水曜日午後1時半~ 聖書入門コース(佐々木担当)
木曜日午前 聖書研究会(旧約、植草担当)

今週の聖句

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒の働き2:42)

約束された聖霊がぺンテコステの日に弟子たちに下りました。聖霊に満たされたペテロの説教を聞いて悔い改め、救われた人々は3000人でした。

彼らは使徒の教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていました。この4つのことをしていたのです。新共同訳では熱心であった。文語訳ではただひたすらつとむと訳されています。
 
かれらは使徒の教えを守ることに、交わることに、パンを裂くことに、祈りをすることに熱心にひたすら努めていました。

初代教会の信仰のあり様が目に見えるようです。
 
彼らのこの一つ一つに専念する信仰はどこからきているのでしょうか。それはペテロの説教を聞いて心を刺されて「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのでしょうか。」と叫んだ人々でした。

御言葉により、聖霊の働きによって、心刺され悔い改めた人たちの姿です。

わたしたちも自分の救いを今一度吟味する必要があります。
 
この熱心を、ひたすら務める一途さを私たちは失っています。いま私たちがこの曲った時代の中で取り戻さなければならないのは愚かとも思えるほどのこの一途な姿です。

教会は閉塞感に満ちています。霊的に停滞しています。クリスチャンの一人一人はとても個人的になっています。
 
信仰の原点「兄弟たち、私はどうしたらよいのでしょうか。」と叫んで悔い改めた時のことを思い起こしてください。

そして、今一度御言葉に熱心に、交わることに努め、パン裂きの奥儀にふれ、祈ることに励んでみませんか。信仰が変わります。
 
主の祝福をお祈りいたします。

佐々木 博

2009年1月12日月曜日

今週の聖句

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのと違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)

ヨハネの福音書は13章から最後の晩餐の記事になります。

過ぎ越しの祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。(ヨハネ13:1)
 
ご自分が十字架にかかり、残される弟子たちの不安を思いやったイエス様の愛に富んだお言葉です。

弟子たちが信じ、このお方こそダビデの再来で、みじめなイスラエルの国を再興し、自分たちもこの再興された国でなにがしかの立場になることを期待していた弟子たちにとって、まして自分の信じるイエスさまが十字架にかかることになろうとは、全く予期しないことでした。ですから最後までだれが一番偉いのだろうかと争っていたのです。
 
予期しない理不尽なこと、不条理なことがまかり通る世の中です。こうした現状をみますと大きな不安や恐れにとらわれてします。弟子たちがこうした状況に会うことになるのです。

解決の道も希望もないように思われます。しかし状況にとらわれないで、一歩退いてイエス様の御言葉を信じ、信頼するとき、この世の与えるのと違ったイエス・キリストの平安に満たされるのです。

主の平安をお祈りしています。

佐々木 博

2009年1月5日月曜日

今週の聖句

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神、ただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)

激動の時代の中に生きています。政治の枠組み、あるいは経済のシステムそのものが変わるような、大きな変わり目、節目に立たされています。

私たちクリスチャンも例外ではりません。その渦の中に巻き込まれもがき苦しんでいる人も沢山いると思います。

信仰をもっているから守られる、苦しみに会うことはない、そんなことはないとおもいます。世の人と同じように苦しみにあい、悩みに会うのです。

そんな状況の中で私たちの生き方は何かといえば、自分の存在を掛けて主なる愛しなさいと神は命じておられます。

歴史を支配し、私たちに最善をなしてくださるお方は、私たちが信じている神ご自身だからです。

時代の不安の中にいます。しかし、愛には恐れがありません。神の完全な愛がキリストによって実現しました。この愛によって私たちの人生が完成へと導かれるのです。ですから安心して神様を愛しましょう。

今年1年皆様の歩みが守られますようにお祈りしています。

佐々木 博