2010年8月30日月曜日

今週の聖句

私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者を赦しました。(マタイ6:17)

マタイの福音書では私たちの負い目となっています。罪と言わず負い目です。聖書には罪と訳されている言葉がいくつかあります。マタイは私たちは神に対して負い目のある存在だと書いているわけです。罪と書かれると、すぐに十戒を思い、私たちは本当に罪な存在だと思います。

しかし負い目を言われますと、神の前にどれほどの負い目、借金があるのだろうかと考えてしまいます。借金は返済しなければなりません。それも利息を付けて返済すべきものなのです。私は国税を滞納した経験がありますが、その取り立ての厳しいこと、延滞に対する利息の高いことに驚いたことがあります。最後の1円まで支払わなければならないのです。私たちの犯す罪はまさに、この負い目と同じ性質を持っているのです。

毎日私たちは罪を犯す存在です。どんなに聖められても罪を犯してしまいます。そのひとつひとつが神に対する罪、負い目なのです。それは支払うべきものです。しかし、私たちの罪は余りも大き過ぎて支払うことができません。そして必ず清算する日が来るのです。

パウロは、おのおの自分のことを神の前に申し開きをすることになります(ロマ14:12)と書いています。私たちの神に対する負債額はいかほどの金額でしょうか。マタイ18章では王様としもべとの間でしもべの借金を清算するお話があります。1万タラントを王様から借りていたしもべの話です。1タラントは6000デナリに相当します。1デナリは1日の日当です、そうしますと6千万日の借金を負うていたことになります。払いきれない、私たちの生きている間、どんなに償っても償いきれない負債を王様に負っていました。彼は王様に赦しをこいました。何と王様は哀れに思ってにその負債を赦してくださったのです。神様の赦しは無限です。イエス様の十字架は完全に私たちの罪、負い目を支払って下さったのです。しかし、この世の生活をするうえで罪をおかすことなく生活することはできません。私たちは肉の体をまとって生きているからです。

そこでこの祈りが必要なのです。マタイ18章のたとえに、このゆるされたしもべが今度は自分のお金を貸したしもべから厳しく取り立てる話が書かれています。そのかした金額は自分の赦されあ金額にくらぶれば取るに足らないものでした。人間存在の面白さ、小ささ、自分の赦されたことは忘れても、人にされた罪、貸したお金は忘れないものです。どんな小さな金額さえもゆるさない。人間の本質がここにあります。ですから毎日、今日のこの祈りが大切なのです。

今日はすこし長く書きました。自分の罪ゆるさらた事はすぐに忘れて、人の罪を責め立てるのが私たちです。人に対する罪を7度を70倍するほどの寛容さが欲求されますが、そのことできない自分に気付かされ、赦された事に感謝することが求められています。

今日1日平安でありますように

幕張本郷クリスチャンコミュニティ
佐々木 博 
043-275-5254

礼拝 毎日曜日 午後3時
集会 毎水曜日 午後1時30より

お知らせ
千葉三浦綾子読書会
9月11日(土)(2時から4時まで)
会費300円
課題図書 塩狩峠

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